はじめに 僕達がふとオーストラリアの音楽を探す時、タワーレコードなどの大手量販店のワールド・ミュージックのコーナーのオーストラリアという所をのぞく。そこにあるCDは、半分以上がノン・アボリジナルの人々がディジュリドゥを使って作曲したものだったりする。 アボリジナルの人々の視点でその状況を見たら、それは異常な光景なんじゃないだろうか?仮にNYのタワーレコードのWorld MusicコーナーのJapanの所に入っている邦楽(J-POPという意味ではなく、日本の伝統音楽の総称の意味)の棚の半分以上が日本人ではない人達の作品が並んでいたら、と考えると妙な気分になるのを禁じえないだろう。 一体これはどういった現象なんだろう?答はそう単純ではない。オーストラリアという国の歴史やアボリジナル音楽の中にある秘密性、そしてなによりもディジュリドゥという楽器がアボリジナル固有の楽器という領域を超えて自由に様々な演奏や音楽で使われているということ、それら様々な要素が関連しているのだろう。 こういった環境の中で、本当に心を打つ音楽、そういった漠然としながらも明確に感じれる何かを探し求める人達にとって、アボリジナル音楽を楽しみ、より深く探究する方法として何かを提案できればと思いこのコラムを書くことにしました。下記はこのコラムを書くきっかけになった、最も初期にディジュリドゥの研究を深く掘り下げたTrevor A. Jones博士の一言です。 ディジュリドゥは、アボリジナル固有の音楽的イマジネーションに完全に依存した、そして手先の器用さやテクノロジーに全く依存しない精神力の楽器なのです。
-Trevor A. Jones(『The Art of the Didjeridu』 / LPレコードのライナーより)- これから話す「アボリジナルの音楽」というものは「アーネム・ランドを中心としたディジュリドゥが歌の伴奏に使われる地域のアボリジナルの音楽」という意味で使われています。またここで書かれている事はディジュリドゥを使ったコンテンポラリーな作品を否定する意図はなく、どちらかと言えばそれを礼讃するためにもルーツ的な事をリスペクトするという点を重要視しています。そしてその内容は、単なる個人的主観の領域を超えない提案であり、文化そのものをそのままに自分の感性で受け止める事の方がはるかにすばらしいと思います。
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