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SONGS OF ABORIGINAL AUSTRALIA AND TORRES STRAIT -Indiana University Archives of Folk & Primitive Music Ethnomusicological Series
SONGS OF ABORIGINAL AUSTRALIA AND TORRES STRAIT
NO FE-4102
Artist/Collecter Geoffrey N. and Alix O'Grady(Recorder)
Media Type LP/CD-R
Area キンバリー周辺、砂漠地域、ケープ・ヨーク
Recorded Year 1955-60年
Label Smithsonian Folkways Records
Total Time 41:18
Price 2,840 yen
Related Works
ABORIGINAL MUSIC FROM AUSTRALIA ABORIGINAL SOUND INSTRUMENTS THE AUSTRALIAN ABORIGINAL HERITAGE AUTHENTIC ABORIGINAL MUSIC -Music from the Wandjina Peopl BUSHFIRE -Traditonal Aboriginal Music SONGS FROM THE KIMBERLEYS

 

LPのみでリリースされたものをオフィシャルCDーR化。西オーストラリア州のRoebourneにディジュリドゥが伝わった証拠としての価値も高いアルバムです。

■序文 1
■序文 2
■序文 3
■録音に関する注釈
■ライナーの翻訳と解説
■音楽学的注釈 1
■音楽学的注釈 2
■音楽学的注釈 3
■音楽学的注釈 4

西オーストラリア州Roebourneにディジュリドゥが伝わって来た事がわかる歴史的な録音の他にも、砂漠地域のドリーミング・トラックについての歌、そしてニューギニアやTorres海峡の島々に色濃く影響を受けたクイーンズランド州Cape York半島の音楽を収録しています。

元来LPで販売された音源を、販売元のSmithsonian Folkways RecordsがオフィシャルCD-R化したものです。このCD-Rには当時のライナーノーツのコピーがついているが、ここで紹介されているジャケットは付属していない。プラスチック・ケースを定形の紙のハコに納めた状態での販売です。御注意下さい。

1955-1960年というかなり古い録音ながら音質はそこそこナイス。ディジュリドゥが入っているのは全41曲中8曲だが、かなり珍しい西オーストラリア州キンバリー地域よりさらに800kmも南西のRoebourneでの録音である。また55年当時はその地域ではディジュリドゥの演奏はみられず、60年になるとWANGGAスタイルのディジュリドゥのCorroboree(カラバリー:アボリジナルの歌と踊りを意味する英語)が行われるようになっていたというディジュリドゥの伝播の証明になっている歴史的価値の高い録音内容になっている。

ディジュリドゥ以外では、クラップスティックやブーメラン・クラップスティックなどの伴奏をともなった「オーストラリア内陸部」のアボリジナル音楽に強い影響を受けた西オーストラリア州の北西部のアボリジナルの音楽の録音に加えて、Cape Yorkのアボリジナルのイニシエーション(通過儀礼)「Bora」の音楽や、オーストラリアとニュー・ギニア間にあるTorres海峡の島民の音楽に影響を受けた「アイランダー・スタイル」のアボリジナルの音楽などが収録されている。

録音者Geoffrey N. O'Grady自身によって詳しくかかれた「序文」と「録音に関する注釈」はかなり濃厚で、末尾には『Songs from the Northern Territory』(CD 1962-63/1996 : AIATSIS)などで知られるAlice M. Moyle博士によって書かれた非常に専門的なアボリジナルの音楽の「音楽学的注釈」は、高度に分析された学術的な文章が掲載されており、下記にその翻訳が紹介されています。

    録音 : Geoffrey N. and Alix O'Grady
    序論と解説 : Geoffrey N. O'Grady
    音楽学的解説 : Alice M. Moyle
    写真 : Mary List、Alice M. Moyle、Alix O'Grady
    編集 : George List

■序文1 / Geoffrey N. O'Grady
世界の巨大な大陸の中でオーストラリアだけが、地質学上重要な時期をスッポリと生命形成の発展の主流からずっと途絶されてきた。長く続いた氷河期の間は、新世界は断続的に旧世界とつながっていた。そして氷河期に、Bering海峡のように現在のいわゆる伝達障壁のようなものになるのに十分な海面の下降がおこり、結果的に乾燥した大地になる。しかしながら、ボルネオ島がセレブ島から、そしてバリ島がロンボク島から切り離されている深い海峡「ウォーレス・ライン」は、東側、言いかえれば、東インドネシア、ニュー・ギニア、オーストラリアに生命形成の発展を効果的に孤立させてきた。コモド・ドラゴンや、カモノハシ、オーストラリアのカンガルーやユーカリの樹木のようなアナクロニズムな存在そのものが、この地域が連続的に孤立していたことの際立った証拠なのである。

上記の考察の観点からみれば、オーストラリアのアボリジナルの人々は、人種間においてユニークな場所に住んでいる、あるいは言語学者は、今までの所、アボリジナルの言語と他のどんな世界の言語との間にも、たとえそれがオーストラリアの近くにあるニューギニアでさえ、起源的な関係を論証することができなかった。オーストラリア内では、20以上の言語ファミリー間で約200種の言語が分類されており、その全てがおそらくたった一つのオーストラリア内の語族に関係している。言語ファミリーの内の一つが、この大陸の約7/8の地域を占めている。その他の20あるいはそれ以上の言語ファミリーは、北部と北東地域のごく一部に密集している。この状況は、(1). オーストラリア北部は、長期間、おそらく1万年を超える期間、アボリジナルの人々が住んでいた (2). オーストラリア北部から南部への移動が比較的最近に起った という二つの推論を導き出す。

■序文2 / Geoffrey N. O'Grady
 キャプテン・クックが1770年に「New Holland」の南東沿岸部をはじめて見た時、ほとんどアメリカと同じくらいの大きさと言われているオーストラリア大陸全体に渡って、約30万人のアボリジナルの人々がまばらに住んでいた。多数の小さなグループに分かれ、それぞれのグループが密接に、トーテム的な信仰によって土地のそれぞれの地域に隣接している。アボリジナルは、複雑な物質文化的な所有物から手を離し、放浪的な生活をし、そして同種の文化的パターンが、オーストラリア大陸全体にはっきりと普及していた。普遍的なテクノロジーから無縁だったため、犬以外の動物、農業、金属加工、陶器、そして弓矢の順応が行われなかった。オーストラリア内で最も技術的発達の少ない地域は、南東部で、ここではオーストラリア型の研摩された石の道具、カヌー、ある種のこん棒、そして釣り用の網と針などが完全に欠落していた。オーストラリア全域で、狩猟採集経済が普及していたのだ。

アボリジナルの物質的所有物は少なく、そしてその持ち物はシンプルだったが、対照的に彼等の社会組織は、非常に複雑である。入り組んだ蜘蛛の巣のような親類関係は、抑制された対人関係の行動パターンと、社会の他の一員に対する決められた個人の義務を結び付ける。現在でも西砂漠地域のコミュニティーでは、カンガルーを捕まえた狩人は、自分の妻の年上の兄弟にカンガルーの尻尾を渡す義務がある。その他の西オーストラリアでは階級あるいは身分の区分はないが、与えられた要請は、話し手に対する聞き手の親類関係構造内の関係に依存しつつ、様々な専門用語で言い表わされる。つまり、Nyangumarda語で食べ物を要求する時、母親の弟が話しかけられる場合「MAYI YUWANYIPULA」という作法で表現される。「PULA」という接尾語は、もう一方の背景における両数(文法用語 : 二つ一組のものを表わす数)の目印であるが、母親の弟という関係を含んだ状況における敬意を表わしている。自分の弟に話しかける時には、単に「MAYI YUWANYA(食べ物をくれ ! )」言うことで、そこには敬意が完全に欠落していることがわかるのに対して、義理の兄弟に対しては、「MAYIKURA TYARUTYA(その食べ物を下さい ! )」と言う。

当初30万人いるとみられていたアボリジナルの人口は、ヨーロッパ人の到来の後には、たった4万5千人に減少した。死者の多くは、多数の実例では部族全体を殺したという天然痘と、その他の病気のために亡くなった。現在では4万7千人まで増加したのは、広範囲で現代医療を受けれるようになったためで、以前の人口動向に普遍的に戻ったらという望みをいだかせる。

現在、アボリジナルの人々の大半はオーストラリア北部にいる。大陸の南1/3と、南西端では、非常に少数の年長者達だけが、彼等の父親の言語と歌を保持している。

■序文3 / Geoffrey N. O'Grady
このアルバムに収録されている41の非宗教歌は、この文章の著者Geoffrey N. O'Gradyが1954年〜1960年の間に行った西オーストラリア州とクイーンズランド州北部で話されるアボリジナルの言語の調査の時に録音された。このアルバムで紹介されている7つの異なる部族グループの内4つは、西オーストラリア州のグループで、2つがクイーンズランド州北部のグループで、残り1つはTorres海峡の東側にあるいくつかの島に住むグループである(地図参照)。下記では、これらの部族についてLPの収録順に論じられている。

Nyangumarda(Nya\umata)族は、かつて西オーストラリア州北西部のEighty Mile Beachに隣接した、暑く、乾燥した半砂漠地域に住んでいた。この部族500人ほどが現在、広い地域にいる。その多くが、採掘業や牧畜業に従事している。全ての人が英語を話すが、Nyangumarda語は大人から最も小さい子供まで、いまだ積極的に使われている。割礼などをふくむ多くの現地の慣習は、厳しくかたくなに信仰されている。アボリジナルの人々の生活における現代の輸送手段の効果は、通常長さ150cm直径5cmほどの中が空洞になった木から作られる楽器ディジュリドゥの近年の急速な普及をみればあきらかである。1955年当時、西オーストラリア州のBroomeの南部では、ディジュリドゥは使われていなかったが、1960年までにはBroomeよりもはるか800kmも南西のRoebourneに住むNyangumarda族にとりいれられていた!

Nyangumardaの人々の住む南東地域には、急速に自分達の言語を話さないようになった部族Nyamalがいる。

西側のNyamalの人々とオーストラリアの中でも最も暑い地域を共有しているYindjibarndi(Yinytyipanti)族の人々は、Nyangumarda族のように昨今、広い地域に分散して住んでいる。200か300ほどいるYindjibarndiの人々には、Yindjibarndiの部族の土地から500kmも離れているYinggardaの部族の土地Carnarvonにさえ住んでいる人がいる。いまだ自分達の部族の言葉を話す子供もいるが、Yindjibarndi族の人々の生活は急速に崩壊していっている。永遠に失われてしまう前に、Yindjibarndi族の歌のさらなる研究が至急必要である。

Alfred Reginald Radcliff-Bronwがこの土地の初期に訪れた時、すでにCarnarvonの町周辺に住んでいるYinggarda(Yi\kata)族の人々は急速に文明化していた。彼等の北や南の沿岸部の部族のように、Yinggarda族は割礼の儀式を執り行わなくなっていた。現在では、数える程の古顔の老人だけが、彼等の言葉と音楽に残されたものを伝え続けようとしている。一般的に、古い伝統的な生活様式を捨て去ってきた若いYinggarda族の大半は、徐々に白人オーストラリア人と文化的に見分けがつかなくなってきている。

Kokopera族とUmpila族は、クイーンズランド州北部のCape Yorkの二つの部族である。Kokopera族は、Carpentaria湾の東海岸へ出る道の手前2/3ほどの地域に住み、Umpila族は、Cape Yorkの約190km南に位置するCarpentaria湾東側のLockhart Riverミッション(教会が管理するアボリジナルの居住地)に住んでいる。

Torres海峡の東側の入り口に位置するMurray諸島には、人種的にも言語学的にもパプア人であるMiriamの人々が住んでいる。現在のMiriamの人々の音楽は、オーストラリア本土の現在の音楽と対比するためにここに収録されています。

Torres海峡の島々と北東オーストラリアの現代の音楽は、Torres海峡の島々からオーストラリア本土へとサモア人の伝道師達によってもたらされた現代のポリネシアの音楽と、オーストラリア本土の音楽の特徴の融合による、複雑な文化変容の過程を反映しているようだ。Cape York半島内での別々の起源とする音楽の融合は、この地域にあるいくつかのミッション・ステーション(教会が管理するアボリジナルの居住地)で起ったのかもしれない。

A面の全ての曲は、Butobaバッテリー駆動テープ・レコーダーで毎秒3.75インチで録音され、B面のトラック1-7は、Wirekバッテリー駆動テープ・レコーダーで毎秒7.5インチで録音された。B面のトラック8-13には、Emiバッテリー駆動テープ・レコーダーで毎秒7.5インチで、トラック14-20は電源駆動のテープ・レコーダーで毎秒3.75インチで録音された。録音全体でEmiテープを1.6〜3.2km使用した。このレコードで聞くことができる曲は、Indiana University Archives of Folk and Primitive Musicに預けられている保管テープ No. 1759-1766の全体のコレクションから選出されています。

Geoffrey N. O'Grady / University of Alberta

■録音に関する注釈
B面のトラック15-20の歌詞の書写しは、情報提供者の手助けを得て行われました。トラック17以外の全ては著者が書写し、トラック17はまず最初にAustralia National UniversityのJeremey Beckettによって書写されている。ここに紹介されているトラック17の歌詞は、著者が少し手を加えたものです。A面の歌詞は、まず最初にAlice M. Moyle女史の録音から試験的に書写された。A面の歌の歌詞の書写しは、情報提供者の協力なしでおこなわれたので、その歌詞の完全な正確性の裏付けはない。

下記はライナーに掲載されているGeoffrey N. O'Gradyによる各曲解説の翻訳です。ディジュリドゥが収録されている曲とその他一部のトラックには、「上記はライナーの翻訳」という文章ではじまる、聴感上感じたレビューが追加してあります。レビュー部分でなされている言及は推測の域を超えるものではないという事をご了承下さい。

また日本語で「〜族」と表記されている部分は原文で「〜Tribe」と表記されていたためであり、「クラン:特定の言語を共有するグループ」の名称である可能性があります。ここではそれぞれの名称の詳細は検証されておらず、原文に忠実にそのまま翻訳されています。

■ライナーの翻訳と解説
SIDE A : NYANGUMARDA SONG 1960
1-3. Nyangumarda4-7. Nyangumarda8. Nyangumarda9-10. Songs of the Nyamal Tribe11-13. Nyangumarda14. Nyangumarda15-19. Nyangumarda20. Nyangumarda
SIDE B : NYANGUMARDA 1955、YINDJIBARNDI 1958、YINGGARDA 1958、KOKOPERA
21-27. Nyangumarda / Songs of Male Group28-29. Yindjibarndi / Songs of a Man30-31. Yindjibarndi / Songs of Women32-33. Yinggarda / Songs of Albert & Rosie34-35. Kokopera / Songs of Christoper Jeffrey36-37. Umpila / Songs of Peter Creek & Furry Short38-41. Miriam / Songs of John Bon with Guitar
※曲名をクリックするとその曲の解説へ飛びます。

SIDE A
A面に紹介されている20曲の歌は、Kenneth Haleと著者が言語学的調査に従事していた1960年5月後半の夜に数回に渡って、西オーストラリア州のRoebourneで録音された。多数の部族グループの人々が録音に参加していたが、Nyangumarda族の人々がその多数を占めていた。トラック9-10はNyamal語の歌であることはさておき、A面の全ての歌はNyangumarda族の人々が歌っている。

ディジュリドゥは伴奏楽器としてたくさんの歌で使われている。ここで使われているディジュリドゥは、この録音で使われたディジュリドゥは、電信柱の鉄パイプを150cm程に切断したもので、Eighty Mile Beachから数百km東の砂漠にあるYulbaridja出身のAlbertという名前の20才くらいの青年によって演奏されている。歌われている言葉の大半は、構造的には話されている言葉と似通っているが、その言葉に意味はないようだ。多くの歌が部族から部族へと交換され、オリジナルの曲の重要な部分というのは失われてしまっている。この事は、必ずしも神聖かつ秘密の歌にも当てはまるという事はない。このアルバムでは、神聖な秘密の歌は収録されていない。

1-3. Nyangumarda
ディジュリドゥと小さなクラップスティックの伴奏をともなった男性のグループによって演奏されている。

上記はライナーの翻訳。複数の男性ボーカルとクラップスティックにディジュリドゥ...ではなく鉄パイプ!それでこのサウンド....アボリジナルが吹けば、どんな楽器でもすごい音を出すんだなと痛感するトラックです。音的には『Rak Badjalarr』(CD 2001 : AIATSIS)のような高音域の倍音が強調されたWANGGAスタイルの伴奏にみられるディジュリドゥのサウンドに近いが、舌先がだいぶ前の方まできているのか、一番アタック感のある音がビチャっとしていて特徴的である。舌は結構自由にすばやく動かしている。

4-7. Nyangumarda
Albertによる歌。トラック5の歌詞の大文字になっている所は、ささやき声で歌われているという事を表わしている。トラック6の「wandaby」という言葉の最後の音節「-dy」は「Palatal Stop(口蓋閉鎖音)」である。したがって「wandaby」という言葉は2音節しかない。

トラック7では、クラップスティックが打ち鳴らす、三つの異なるテンポが聞かれる。単一のビートの連続は「Timpilytimpily」、2倍のビートの連続は「Timpirrirri」、そして曲の終わりのロール、あるいはガチャガチャと鳴らす音は「Titytityi」と呼ばれている。

8. Nyangumarda
男性グループが、ワックス・マッチ(ろうで固められた棒を使って作られたマッチ)の缶をひかえみに擦り合わせる音を伴奏に歌っている。

9-10. Nyangumarda
Nyangumarda族の男性のグループが歌う、Nyamal族の歌。トラック8と同じ伴奏。

11-13. Nyangumarda
男性のグループによる歌。トラック11で歌われている歌詞には、Nyangumarda語に属していると認識されている言葉も使われている。

14. Nyangumarda
55才くらいの男性Kupanguの歌。

15-19. Nyangumarda
ディジュリドゥの伴奏をともなったKupanguの歌。

上記はライナーの翻訳。複数の男性ボーカルとクラップスティックにディジュリドゥ。Goulburn島のGUNBORGにも似たポップなメロディの歌が聞かれる。キメになっているブレイクで歌われるリズムがコミカルでおもしろい。残念ながらディジュリドゥの音は少しくすんでいてわかりにくい。

この地域では1955年までディジュリドゥがなかったのに、1960年にはすでに北からディジュリドゥが持ち込まれ、定着していたという事実から、ライナーでディジュリドゥについてある程度深い考察がなされており、その内容は非常に興味深い。ここであげられている見解では、元来オーストラリアで中が空洞になった木や枝や竹を吹くという考えは、様々な種類の管楽器が存在するニュー・ギニアからやってきたのではないかとされている。

20. Nyangumarda
クラップスティックの伴奏をともなった男性グループの歌。

SIDE B
21-27. Nyangumarda
ブーメラン・クラップスティックの伴奏をともなった男性グループの歌。西オーストラリア州、Wallal高原のMinguelにて1955年の8月の夜に録音された。トラック25-26を別にすれば、全ての歌はブーメラン・クラップスティックのスタッカートしたロール「Tityitityi」で終わっている。トラック26は、音程が上がって行く「Ai」という音節で曲が終わっている(Yindjibarndi付近の歌には、音程が徐々に下がっていく、長く伸ばした両唇を震わせる声で終わるものがある)。情報提供者は、すでに紹介してきたように「南からの」言葉だと表現して、この歌の歌詞に意味付けすることができなかった。

28-31. Yindjibarndi
トラック28-29は男性の独唱で、30-31は女性のグループによる歌。西オーストラリア州のOnslowにて、1958年2月のある晩に著者とその妻Alix O'Gradyによって録音された。天候は、特に録音をするには不都合で、気温と湿度は高く、強風とそれによるほこりがあった。トラック30-31では、風の干渉が聞かれる。トラック28-29は突然冒頭部分が始るが、これは著者が歌が始る前に突然テープ・レコーダーのスイッチを入れたためである(テープ・レコーダーのはずみ車構造は、十分な勢いを得るのに数秒かかる)。

32-33. Yinggarda
ともに少なくとも50才以上の結婚している夫婦AlbertとRosieによる歌。Carnarvonにて1958年2月にAlix O'Gradyによって録音された。Yinggardaの場所は地図に掲載されています。

このレコードのB面の残りの歌は、Yinggardaの2,400km北東に住む三つの異なるグループの歌で、シドニー大学の民族学部にて1960年5月に録音された。情報提供者達は、様々な職業を学ぶためにシドニーにきていた。トラック37以外は、各自が話す言葉で理解できる言葉が全ての歌の歌詞に含まれている。

34-35. Kokopera
20才の男性Christopher Jeffreyによる歌。助手が情報提供者から聞き出してこつこつと集めた追加的な詳細は、一語一語正確な翻訳ではないという事は明らかだが、歌の要点を下記のように述べることができる。

    一人の男が仰向けになって、二羽のオナガイヌワシが天高くつかみあげたカメを奪い合って争っているのを見つめている。その二羽のオナガイヌワシその獲物を結局彼等の巣へと持って帰った。その男は自分が見た事について作曲しようと決めた。

36-37. Umpila
ともに30才くらいのPeter CreekとFurry Shortによる歌。トラック36では、歌われている言葉は、いくつかの点で話し言葉とは異なっている。たとえば、話し言葉で「here」は「\i?i」だが、歌の歌詞では「\ie」である。

トラック37の歌は、「Bora」あるいは「イニシエーション(通過儀礼)の歌」だと言われている。情報提供者によれば、この歌は、オーストラリア本土のPascoe Riverから様々な小さな島々を通って、Torres海峡の東側にある彼の最後の故郷Murray島へと泳ぐトカゲ類の文化的英雄の放浪に関係している。独特な言葉の意味合いは、情報提供者にはわからなかった。いくつかの言葉は、Umpila語の音素的特徴に合わせていない。この歌はおそらくUmpila語で歌われていはいないのだろう。

38-41. Miriam
20才くらいの男性John Bonが自分でギターを弾きながら歌っている。Miriam語の歌では、ポリネシアの音楽スタイルとその土地に関するテーマとのコンビネーションが聞かれるという点が特徴的である。

トラック18は、「Way kebira Ged(これが私達の島です)」という歌。トラック39の歌は、真珠を採る小型帆船の登録番号にちなんで「A 99」と呼ばれるている。真珠を採る小型帆船は、まるでかつては鳥だったかのように語られてる。トラック40は「Keyp Yok adud ged(Cape Yorkはひどい所だ)」という歌。この資料提供者に歌詞を話してくれるように頼んだら、「O」と「A」の母音が除外されていた。それにははっきりとした意味はない。トラック41は、若々しい文化的英雄「Galam」に関する歌。

上記はライナーの翻訳。ギターの弾き語りのアイランダーズ・スタイルの歌。ディジュリドゥのみを聞きたい人には興味の薄いトラックかもしれないが、心なごむやさしい曲で単純にアボリジナルの人々のゆるやかな時間の過ごし方にマッチングしているようにも感じられる。白人音楽の影響を受けて生まれたアイランダー・スタイルにさらに影響を受けたアボリジナルのフォーク・ソングがどれも一様に、明るく、やさしく、気持ちいいのは何故だろうか。

下記はライナーの末尾に掲載されているAlice M. MoyleによるこのLPに収録されている西オーストラリア州北部から内陸部にかけてのオーストラリア北西部の音楽と、Cape Yorkを中心としたクィーンズランド州北部のアボリジナル音楽について、音楽学的な観点から学術的に解説した文章の翻訳です。

非常に専門的な音楽用語や難しい言い回しが随所に見られ、さらに学術的なアプローチで書かれた文章であるため、一般的には非常にわかりにくい内容になっているが、西オーストラリア州のアボリジナル音楽について詳しく書かれた文章は比較的少ないので、ぜひ一読していただきたい。

■音楽学的注釈 1 / Alice M. Moyle
このレコードに収録されている音源は、現在まで残っているアボリジナルのグループの音楽で、彼等の部族的関係は、オーストラリア本土の反対側にある。彼等は東西にわたる地域に住み、音楽を深く知っている。その音源は、すでに保存されているコレクションに価値ある追加をし、同時に民族音楽研究のために役立つ比較資料を提供している。

19世紀の最初の10年間に、オーストラリアのアボリジナル音楽を「ワックス・シリンダー(鑞管)」で録音する最初の試みが行われた。その約20年後、オーストラリア北部、北中央部地域からの録音の追加があった。改良された機材を使用した、より広範囲に渡った録音が始ったのは、ナショナル・ジオグラフィック協会、スミソニアン学会、オーストラリア政府の後援を受けて1948年に行われた「Australian-American Expedition to Arnhem Land, North Australia」以降である。これ以降、特にニュー・サウスウェールズ州シドニーと、南オーストラリア州アデレードにある大学、そして最近はキャンベラのAIAS(Australian Institute of Aboriginal Studies)などと連係して、民族学者やその他の学者によるフィールド・ワークが行われ、それにより現在の基礎であると考えらる、かなり包括的なアボリジナル音楽のセレクションにいたった。

社会文化的な観点から見れば、このアルバムに収録されている録音物は、アボリジナル音楽の変化についての手がかり以上の事を示す音楽的証拠として見られるだろう。二つの異なる地域の録音がこのアルバムに収録されている。その一つは、クイーンズランド州北部で、そこに住むアボリジナルの人々はヨーロッパ文化との定期的な接触に加えて、直接的あるいは間接的に大平洋の島々の人々と関係がある。もう一方は、ディジュリドゥを演奏するグループが北に、ディジュリドゥを演奏しないグループが南と南東に存在する交差点に比較的近いオーストラリア大陸内の場所である。

豊富な伝統、非伝統歌に加えて、現在クイーンズランド州の一部の若いアボリジナルによって歌われる「アイランド・スタイル(Torres海峡の島々から伝わってきたクイーンズランド州北部の本土のアボリジナルの人々の歌)」を模倣した歌は、この地域をオーストラリアのその他の地域と区別している。そして、ポリネシアの音楽にはよくあることだが、アイランド・スタイルの音楽を聞いてすぐに浮かぶ印象としては、19世紀のキリスト教の福音主義(形式的儀式よりも信仰を重視する考え)の残留、あるいはその音楽のメロディー、リズム、そしてハーモニー面に影響を受けたと考えられる流行遅れのポップ・ミュージックである。

このレコードに収録されているギターをかき鳴らす音(トラック38-41)と、3-5番目で聞かれる二つのパートの歌は、クイーンズランド州のアボリジナルの若いシンガー達にとっては「モダン」だと考えられているのだろう。今までの所、このようなヨーロッパ的な影響を受けているオーストラリアの録音は、西オーストラリア州からも、アーネム・ランドからもなく、Cape York半島の東と北東地域でしか聞かれない。オーストラリアのアボリジナルの人々の間では、このようなスタイルの音楽が人気を博している。北東部のYirrkalaと北西部のOenpelliのアボリジナル居住地でも、Torres海峡の島々を起源と伝えられている音楽が、10代のアボリジナルの少年達によって歌われている。島々とノーザン・テリトリー州との通信は、Carpentaria湾とArafura海に接している協会管理のアボリジナル居住区とThursday島の間の積荷を運ぶ供給船で行われている。「Bora」と呼ばれている歌(トラック37)は、クイーンズランド州の多くのアボリジナルの人々が、彼等の宗教的な歌だと呼んでいるが、メロディーのスタイルは現代的な「アイランド・ダンス」に近い。

「Introduction」の文章でGeoffrey O'Gradyが要点を述べていたように、現在のアボリジナルの言語状況に関連して、ノーザン・テリトリー州の北と北東部における異なる音楽スタイルの集中は、より広範囲に広まった、主にはるか南部と砂漠地帯に接している内陸部のグループに見られるスタイルと対照的だろう。砂漠地帯に近い内陸部の住人達における密接な文化的連帯は、音楽演奏の一貫した様式に反映されている。

オーストラリアのスティックを打つ伴奏は、知られている限り、どんな東南アジアの音を奏でるイディオフォーン(単一の物質からなる打楽器 : トライアングル・シンバル・木琴などの体鳴楽器の総称)にも似ていない繰返しで、音の変化をつけないで演奏される。ノーザン・テリトリー西部で聞かれるドローンの伴奏、継続的な打楽器のリズム、そしてはっきりと記憶された歌のメロディーのコンビネーションを聞けば、中央アジアのより小規模な音楽的アンサンブルをふっと思い出させる。オーストラリア以外で音楽的類似点を見つけることは難しい。

■音楽学的注釈 2 / Alice M. Moyle
アーネム・ランドとオーストラリア北西部における儀式的な「ダンス・オーケストラ」の総人数は、一人のディジュリドゥ奏者、2〜3人以上のスティックも演奏するシンガー達で構成されており、シンガーの内の一人がおそらく、このグループのリーダーであり、そのソング・シリーズの所有者である。踊りの最中にそばで見ている人達は叫び声や掛け声をかけ、そしてスティックの音に合わせた手拍子をする。これとは対照的に、内陸部のシンガー達とそのリーダーは、普通より大人数のグループで演奏する。中央オーストラリアで昔に演奏された儀式に関するレポートによれば、儀式の参加者達は、1〜2つの輪になって座り、ブーメラン・クラップスティックの一定のガチャガチャという音に合わせて歌っていた。1955年当時、Roebourneに住むNyangumardaの人々は、このようなより中央オーストラリア的な儀式の方法に精通していた。このアルバムに収録されているディジュリドゥの伴奏をともなった歌の録音が行われた1960年までに、同じNyangumardaの人々が異なるタイプの音楽を演奏するということがわかった。つまり、Geoffrey O'Gradyの収集した音源は、ディジュリドゥの伴奏を伴った歌が南へ「侵入」している直接的な証拠なのである。

このレコードで聞くことができるディジュリドゥの伴奏(トラック1-3と15-19)は、比較的継続的にドローン(持続低音)を演奏する「北西のスタイル」を手本としている。この演奏スタイルは、このレコードにはその録音が含まれていないが、ドローンより高い倍音の音(トゥーツ)が演奏される「北東のスタイル」とは区別されている。今のところ西オーストラリアの演奏者に対して、アーネム・ランドのドローン・マスター達の演奏と同等のすばらしい演奏を人々が期待することはないだろう。このアルバムでのディジュリドゥ奏者Albertが南の音楽的背景を持つ事を考えれば、彼の努力はまさに音楽的冒険であるといえる。西オーストラリア州において、どんなに南の音楽と、男あるは女の超自然的な親交があろうとも、北からのディジュリドゥという楽器が新しく、魅力的な音楽的技術の挑戦をこの地域にもたらしてきている。ディジュリドゥのソロ楽器としての発展は、起り得なさそうである。人気のあるサウンド・エフェクトとして広まるかもしれないし、その使用はおそらく書かれた音楽に集約されるのかもしれない。

クイーンズランド北部地域のアボリジナルの儀式の最中に演奏されたディジュリドゥについての昔のレポートによれば、この地域では短命だったかもしれないのだが、ディジュリドゥがより広大な範囲で広がっていた事を示している。現在では、Carpentaria湾の南のBorroloola居住区が、ディジュリドゥの分布の東の最終地点である。空洞になった枝、あるいはある程度の長さの竹を吹くというアイデアは、様々な種類とサイズの管楽器が豊富にあるニュー・ギニア、特にSpeik River地域から最初にオーストラリアにやってきたという可能性がある。たとえそうであったとしても、この不条理な程にシンプルな気管楽器で音を鳴らすオーストラリアのアボリジナルの手法は、おそらく独特なものである。

東の州のより孤立した場所でいまだ聞かれる伝統的な歌の伴奏は、スティックを鳴らす、あるいは手拍子である。Cape Yorkのアボリジナルの人々とTorres海峡の島々の人々で共有されている英雄儀礼の儀式の際に使われるスキン・ドラムの伴奏をともなった歌は、現在ではどのような形式であれめったに聞くことができない。

■音楽学的注釈 3 / Alice M. Moyle
オーストラリアにおけるほぼ全てのタイプの部族の歌は、儀式的慣習になんらかの方法で関係付けられてきた。神聖な種類の歌の儀式は、定期的に牛の牧場、政府の管理する居住地、あるいは教会の伝道所が管理する辺境の居住地の所有者達を自分達の仲間に加えて、いまだたくさんの地域で放浪をするグループによって執り行われている。一つや二つの例外を除いて、秘密、あるいは閉ざされた儀式ではマイクで録音されることが嫌われる。そのような歌は、たいてい豊穣に関した儀式、最初の出来事の正確な再演にいまだ関係している部族の知識に精通した年長の男達によって歌われる。創造力のある、もしくは「ドリーミング」の世界の神話の住人との記念的接触によって、おそらく現世への助けが生じる。

宗教的、もしくはオープンな儀式の演奏とキャンプで聞くことができた儀式的な歌の断片の録音はより容易に得ることができた。このようなアボリジナルの女性と子供が聞いても良い「Corroboree」の音楽でさえ必ずトーテムの、あるいは神聖な重要性がふくまれている。アボリジナルのメロディーそれ自体に「神聖な歌」と「宗教的な歌」の間にはっきりとした境界線をつけることは容易ではない。

このアルバムに収録されている多くの歌では、特につねにシャイな女性達の興奮を抑えた雰囲気は聞き逃したくない点である。女性達によって歌われている歌の録音(トラック30-31)は、収集者であるGeoffrey O'Gradyとその妻がアボリジナルの人々と良い関係と築き上げた証明である。

オーストラリアのアボリジナル音楽のフィールド録音を行う人達は、特にその歌が儀式の一部から切り離されている時に、アボリジナルの資料提供者から歌のタイトルを得ること難しさについて、ほぼ満場一致で意見を同じくするだろう。自分が歌っている事をシンガーが説明する時は、たくさんの異なるレベルの意味合いでその説明がなされているのだろう。シンガーが祖先のトーテム的存在から得たのかもしれないという状況、もしくは、儀式的「法律」の専門用語で説明しようとしているのかもしれないという状況下で、シンガーは「ドリーミング」、あるいは神話的関連の前後関係において自分の歌を表現しているのかもしれない。短い曲の大半は儀式の時に何日間も、あるいは幾晩も、立続けに歌い続けられる長いソング・シリーズの一部である。外部の人にとってはこのようなメロディーのまとまりを分断することはなんともないだろうが、彼等は曲を分ける歌と演奏の短い中断によってその歌をわけるように、それぞれの歌の美しい調べごとに曲をわけるということはしない。

年長者達がいまだ正確な歌詞を覚えている限り、確かな曲の順番で、神聖化されている数え切れない程の曲を含んだソング・シリーズが続けられる。しかしながら、口論や協議によって歌が中断されることはごく普通にある。

■音楽学的注釈 4 / Alice M. Moyle
前述したように、クイーンズランドのシンガー達の歌には、外部の影響がさまざまなメロディーの痕跡を残している(トラック34-41)。例えば、KokoperaとUmpilaの歌、Miriamの歌の一つには、同じヨーロッパ起源の4度上がる慣習的な方式が見られる。西オーストラリア州の録音でこの方法で始められている唯一の例はNyangumardaの曲で、異なった調性(音楽に用いられる和声や旋律などの音が或る一つの音を中心に統一的にまとまりを形成している音組織ー広辞苑より)と形式を持っている。このアルバムに収録されているオーストラリアの東と西それぞれの歌の間には、メロディー、あるいはリズムの類似点がほとんどない。

不調和なく、クイーンズランド州のシンガーの歌の書写しに調号(調や音階に♯や♭を示したもの。曲のキー。調記号ともいう)が付け加えられているということが音符で書き記されている。調性は「メジャー(長調)」だとはっきり区別でき、フレーズ区分は明確である。長く伸ばした音が、UmpilaとMiriam両方の歌の楽章の終止部分で見られる。ギターの伴奏をともなった「Way Keriba Ged」ソング(トラック38)における半音階の下降は、「ナイト・クラブ」よりも古いと言われている「ミュージック・ホール」と言われている旋律的語彙に属している。Kokoperaのメロディーは、捕らえ所のないフランスのフォーク・ミュージックの趣きを感じさせるソロモン諸島で現在聞くことができるような異文化との接触によって文化変容した歌とは異なっている。

西オーストラリア州の歌では、基音とそれに引き寄せられる音の間に一貫した音程差をつけた関係が見られるのだが、ハーモニーを発するメロディーのかすかな痕跡が見られる。様々なタイプのスティックをたたく伴奏に合わせて歌われる歌では、多かれ少なかれ各音節をはっきりと発音されている。語彙的ではなく、単なる音声として考えた場合に、その「歌詞」は繰返されるリズム・パターンと結び付いて交互に歌われる音節の集合で構成されている。このような「内陸」音楽形態の事例は、このレコードの両面で聞くことができる(特にトラック4、6-7、22-25を参照)。

A面トラック1-3のディジュリドゥの伴奏を伴った歌のメロディーは、はっきりと楽節(一区切りの短いメロディー)に区分されている。トラック1では、冒頭部分(A)でグリッサンド(滑奏法 : 一つの音から次の音へと滑るようにつなげる奏法)のような声の下降は、5線譜で正確に表わすことが難しいが、この楽節(B)とその後の楽節(C)の間における音とリズムのコントラストは、はっきりとこの手法を表わしている。全音階(5つの全音と2つの半音からなる7音階。つまりドレミファソラシド)的な繰り返しのあるトラック2の歌の注目すべき点は、5音階(5つの音で構成される音階)がそれに続くという事である。その歌は、より一貫して音節的なタイプである、すなわち一つの音節に対して一つの音が存在している。その他のディジュリドゥの伴奏を伴う歌(トラック15-19)同様、トラック1と3には時折スラー(音の間を切れ目なく歌うこと)、つまり一つ以上の音が共有する一つの音節、が見られる。

原則的に、「北西タイプ」のドローンを演奏するディジュリドゥの伴奏をともなった歌には、日常会話に翻訳できる音節、あるいは音節のグループが使われているが、それにもかかわらず音節のグループは見分けがつく順番、あるいは繰返しを維持している。このレコードのA面で聞かれるそれぞれの曲の終りでは、結尾部分がはっきりと聞かれ、それはドローンの基本の音程の約1オクターブ上までの最も低い声に限定されている。このような曲を終結させるボーカル部分の音節は、特にトラック1と3、同じ曲の終結部分より前の部分の音節とは異なっている(6Pと7Pに掲載されている歌詞を参照して下さい)。トラック16-19では、その隔りがより広く、ここでの曲を終わらせるシンガーの声は単なる母音である。北西オーストラリアの歌のスタイルの約束事からわかるのだが、ディジュリドゥとクラップスティックによる伴奏をともなったこのような最後の短い歌の言葉は、Nyangumarda言語グループの人々が発案した歌唱方法なのかもしれない。この歌唱スタイルは、はるか北のDarwin付近に住むWagaitjの人々のカラバリー、あるいはダンス・ソング「WONGA」で見られる「Nge-nge-nge」のようなよく知られた曲の結尾の決まり文句とはまた異なっている。

その忘れられない短いメロディーがすばらしいトラック19は、その前の4曲(トラック15-18)のディジュリドゥの伴奏がともなった歌とは異なっている。トラック15-18は調和のとれた6音音階、そして長調に似た構成であり、相互にその音色につながりがある。その曲構造は、それぞれが5度の上昇音によって分断されている二つの歌の下降部分で構成されている。トラック19の下降するメロディーの音階は、より適切に表わすなら「5音階」である。

「内陸部のスタイル」の歌の終結部分は、ほとんど例外なく基本音での言葉のリズムの繰返しで構成されている。より強調的な歌の終結部では、約1オクターブの声の高さの母音を低い声で発し(トラック4-6、20、27参照)、スティックのすばやいロール音、あるいはトレモロの演奏が行われるのが目立つ。このようなすばやいスティックの演奏の反復は、ボーカルの歌詞の開始部分とそれに続く繰り返し部分を導くように先に演奏されことがある(トラック27)。 別の曲(トラック26)の終結部で音程が高くなる「AI」という声は、終結部で聞かれるNyangumarda語の歌に特徴的な音階だが、短いものになっている。より一般的な歌の終結部は、比較的長く、旋律的で、オーストラリア東部で歌われる歌に見られる。そういったリフレイン(反復句 : 同じフレーズを繰り返すこと)は普通、その歌の最後のフレーズの言葉とメロディーの繰り返しで構成されている。

上記のA面トラック15-18ように、このレコードに収録されている数多くの歌は、同一の基本的な調的構造を持ったリズムのバリエーションで構成されている。というのも、このような歌は、ある祭儀的儀礼の過程の最中に何度も繰り返して演奏されるからだろう。多才な西オーストラリア州のミュージシャンAlbertが歌うクラップスティックの伴奏を伴った歌(トラック5-7)をよく聞いてほしい。彼の歌の最後ではスティックの演奏方法にいくつかのバリエーションが見られる。それぞれの歌の項目はリズム的には違うが、その音色は似通っており、その範囲は1オクターブにわたる。基本音からマイナー3度上とオクターブ上の音程差が、5度の音が二つある歌の2番目の下降部分を占めているのと同様、はっきりとしている。

Curt Sachsの著作『The Wellsprings of Music』で、彼は最も古い音楽の「Tumbling Strains(歌が繰り返し下降する節)」について述べており、彼が言うにはその最も自然なスタイルは「オーストラリアに残されていると思われる」。この録音は偶然ではなく、歌のメロディーの下降の多様性を明示している。さらに、その前には歌のメロディーの上昇も生じている(トラック5-7、12、25-26、33参照)。歌のメロディーの下降における音階は、休符が入り、そして楽器がその空白を埋めるという事がそれに頻繁に混ざった「5音階」あるいは「全音階」である。

B面のYinggardaソング2曲の歌のメロディーの上昇は、注目すべき形式である。トラック32は、5度の湾曲線内で6回と7回のまとまりで変化しており、Nyangumarda語、Nyamal語、Yindjibarndi語の歌とは異なっている。二つの楽器を擦り合わせる音を伴奏にともなったNyamal語の歌(トラック29-30)では、「Tumbling Strains」が存在するが、音階的に特有で、より発展的な形式である。こられの旋律には「変格旋法(中世に発達し、主にキリスト教の聖歌の基礎となっている音域の真ん中に終止音を持つ旋法)」の一つである「単旋律聖歌(モノフォニーで無伴奏の聖歌。グレゴリオ聖歌など)」といくつかの類似点がある。

五線譜の「線と間」でとらえることが難しいこのような類似した歌い方は、Yindjibarndi語のシンガー達の歌に顕著である(トラック28)。男性の歌う歌が「5音階」、時には「3音階」でさえあるのとは対照的に、女性シンガー達が歌っている2曲(トラック30-31)では、歌のメロディー・ラインが明確である。

伝えられるところによると「南からもたらされた」と言われているNyangumardaソングでは、一対になった歌の音律がみられる。トラック22では4拍子から5拍子へ、トラック24では3拍子から4拍子へと規則的に変化している点に注目してほしい。このような変化するリズムのモチーフは、固定的な音階の進行に沿って、基本音にたどりつくまで続く。そのリズム・パターンは単調、あるいは聖歌を歌うような方法で歌われる。

同じような歌の形式は「内陸部のスタイル」の歌に多くみられ、その一部は極端なまでに複雑である。開明されてはいないが、シンガー達自身がもはやこのような古代の定律的な歌唱技術における「達人」ではないという事がその理由なのだろう。

Alice M. Moyle / Australian Institute of Aboriginal Studies