Watiyawanuのストアーでは、こういった感じのプリントシャツだけの販売コーナーが設置されている。 |
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モリーン達と狩りに行った翌日、Watiyawanuの住人の反応に期待しながらコミュニティを散策する。辺りをキョロキョロしていると、これでもかっ!というぐらい原色が使われているド派手なプリントシャツを着た女性達の姿が目に飛び込んでくる。
僕達日本人が着れば絶対に似合わんやろなというサイケデリックな色使いと模様のシャツなのに、彼女達の肌の色には違和感無く合っているような気がする。彼女達の表情は顔の彫りの深さと、プリントシャツに目移りしてはっきりと見る事は出来ない。
あまりマジマジと凝視するのも失礼かなと思い、恒例のごとくLuritja語で「Palya?(元気?)」と声をかけていく。すると年若い人達から「元気だ」と返ってくるではないか!これは先日食べたMaku(英名Witchetty
grub : 蛾の幼虫)パワーなんだろうか!?
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コミュニティの大きさはというと徒歩で20〜30分で回れるぐらいだ。カウンシルで登録されている住人の総数はおよそ300人らしいのだけれども、実際コミュニティを歩き回って感じた人数は200人以下の様に感じる。後でグラニスに聞いてみたら、アボリジナル達は頻繁にコミュニティを出たり入ったりしているみたいで、町に行ったきり1ヶ月程留守にする人がざらにいるみたいだ。移動方法の多くは自家用車で、町に向かうという車があればみんなが乗り合わせて移動している。その他に、砂漠にあるいつくかのコミュニティとアリス・スプリングスを繋ぐブッシュ・バスが週1回のペースで運行していてそちらを利用する人も多いそうだ。ダート・ロードを走る乗り合いバス?ちょっと想像がつかない。
政府がアボリジナルの人達に支給している居住スペース(家)は、コミュニティ内に等間隔で30戸程建てられている。家の周りにはベッドのマットレスが野ざらしで置かれていたり、お皿やコップ、フライパンといった調理器具も地面の上に無造作に放置されたりしている。
それらを見ていると、どうも彼らは一日の大半を、屋根の下じゃなくて空の下で過ごしているように思える。現にたき火を囲んで肉を焼いている人達や、延長コードを屋内からひっぱってきて音楽を聞いている人達を見かける。
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簡易的に作られた直火コンロ。調理するのも食べるのも空の下のようだ。 |
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僕もテントを張ってキャンプをするのは好きだけど、毎日をプライベートなスペースがない空の下で過ごす事はおそらくできないだろう。
腕白アボリジナル・キッズ。一旦慣れると怒涛のように取り巻かれる。 |
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コミュニティの未舗装のでこぼこ道に足をとられ、ついつい足元ばかり見てしまう。ふと顔をあげると、道のむこうに数人の子供達がもじもじしながら僕の方を見ている。「みんなシャイやなぁ」と思いながら彼らを眺めていると、ふいに彼らのうちの1人がかけよってきた。
1人が僕に話しかけてくると、堰を切ったように他の子供達もかけよってきて、片言の英語で「お前はジャッキー・チェンを知っているか?」「忍者の知り合いはいるか?」と一方的に話かけてくる。
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「おいおい、さっきまでのもじもじ君はどこに行ってん!?」とつっこめるぐらいの豹変振りだ。っていうか、砂漠のコミュニティに住むアボリジナル・キッズが持つ日本人のイメージは、「アジア人=ジャッキー・チェン」、「日本人=忍者」だったのか!!
彼らのおよそ現実味の無いアジア人像に唖然としていると、僕がカメラを手にしているのをめざとく見つけ「カメラで撮って、そのカメラで撮って!」と大騒ぎになった。
子供達の後姿を見つめながら、アボリジナル・キッズが「日本人=忍者」というイメージを持っていた事と、僕自身、砂漠で暮らすアボリジナルの人達に対して似たようなイメージを持っていたという事が重なった!!
僕が砂漠のアボリジナルに持っていたイメージ。
木の棒を持って狩り場まで歩いていく狩り → 実際は、車や鉄の棒を使った現代的な狩猟。
砂漠という不毛の大地から住人は痩せているイメージ → 実際は多くの人ががっちりした体格。
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勢いよく水を流しながら顔を洗う女性。砂漠では水を大事にしているのだろうという僕のイメージにはなかった光景。 |
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こういった勝手なイメージが一人歩きして、僕の中で彼らと自分を区別する境界線のようなものまでも作り上げていたかもしれない!!人間の持つ先入観の恐ろしさついて本当に考えさせられた出来事だった。限られた一方向からの情報しか知らないと、人間ってそのイメージが突っ走ってしまって思いもよらない事を想像したりするんだなぁ。
1〜2時間程のコミュニティ内の散策を終え僕が感じた事は、ベタな言い方かもしれないが「百聞は一見にしかず」ということだ。これからのコミュニティ生活でどんどんとこういった事を感じていけたらすごく充実した生活を送れるのではないかと感じてきた。その為にも、自分の中にある情報だけで物事を判断するのではなく、フラットな立場で、双方向的に物事を捉えられたらいいなと思うのだった。