【ごちそう?】
それを見た瞬間僕が幼少の頃、昆虫採集に行った時のカブトムシの幼虫を思い出した。もちろんその当時は、幼虫を食べたいから捕まえに行ったのではなく、飼育しようとして捕まえたのは言うまでも無い。それが20数年後には食べ物として僕の手のひらでクネクネと動いている。人生何が起こるか本当に分からない。 僕の周りで子供達が、Makuを喜々として口に含んでいる。「生まれ育った環境が違えば、こうも物事の捉え方が違ってくるんだな」と思いながら子供達を眺めていると、彼らが笑顔で「食べないの?」と急かしてくる。子供は無邪気にして残酷と改めて痛感する。トカゲの時は、調理されている事もあってためらう事無く食べる事が出来た。しかし、動いているMakuを食べるには…、さすがに少し気が引ける。見れば見るほどMakuは生々しく、幼少の頃の記憶が蘇る。気分はまさに「Dead or Alive」といった感じだ。そんな僕の思いを断ち切ってくれたのが目の前にある、リアルなアボリジナル文化。「これ程までにアボリジナル文化を直に触れられる機会なんてないやん!」と思った瞬間に、Makuの頭を掴んで、お尻の方から口の中に入れた。
あまりのおいしさに、蛾の幼虫を食べているという気がしないままに、一匹まるまる食べ終えていた。すると、なにやらモリーン達がクスクスと笑っている。「なんでだろう?」といぶかしんでいると、モリーンが「本来Makuは焼いて食べるものなのよ」と教えてくれた(といっても生で食べても問題は無いらしい)。けれども僕はこの時、不思議とだまされたという感覚は起こらなかった。大自然の中に分け入り、獲れたばかりの野生の食べ物をありのままに食べる。僕が今まで生きてきた中での食文化とはかなり異なるが、何千年とこの地で暮らすアボリジナルが育んできた食文化だ。それは大自然の恵みであり、生きる為の糧には間違い無い。そして紛れも無くMakuは僕にとって「砂漠のごちそう」だった。
帰りの車中、運転しながら僕の頭にある考えが浮かんできた。それは「Watiyawanuで楽しく暮らせるんやろな」という事だ。自分の中に、アボリジナル文化とのギャップは確かにある。それは言語や習慣、考え方といった全ての事において言えるだろう。けれども「人間が生きていく為の一番大事な部分である、食文化に対しての隔たりが無ければなんとかやっていけるだろう」と思うのだ。その証拠に、モリーンや子供達との距離が狩りに行く前に比べて数段近くなっている気がする。砂漠の夕日を浴びながら、意気揚々と「今度狩りに連れて行ってくれる時の獲物はなんだろう?」と考えていると、突然モリーンが。 「Yaka!(Oh my god!)」と叫んだ。 何事かと思いモリーンの方を振り返ると、 「タイヤ…、パンクしてるわよ。」 これまで、なんのトラブルもなく順調やったのに…。僕はひとりつぶやき、顔をひきつらせながらも様々な経験を与えてくれた砂漠の大地に感謝をするのだった。 |トップへ|
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