White Cockatoo Performing Group
ロゴ アボリジナル絵画
Darryl Mago
ライブ
ワークショップ
プロフィール
アーティクル
お問合せ

1. アーネム・ランドのアボリジナル・アート

アボリジナルの人々は約5万年という長い間、狩猟採集を中心とした生活を広大なオーストラリア大陸で営んできた。そのなかでもオーストラリア北部、ノーザン・テリトリー州内にあるアーネム・ランドでは、より伝統的な生活に近い暮らしが今でも営まれている。赤道付近に位置するアーネム・ランドは熱帯の気候に属し緑も多く、豊かな自然に囲まれている。

※アーネム・ランドについての詳しい情報は【アーネム・ランド】をご参照下さい。またこれ以降「アボリジナルの人々」という表現が指す言葉は、便宜上「アーネム・ランドのアボリジナルの人々」という意味であり、オーストラリア全土のアボリジナルの人々という意味ではない事をご了承下さい。

アボリジナルの人々は、この悠久の時の中で絵画だけではなく、数多くの芸術を生み出してきた。いくつか例を挙げてみると・・・

  • 動物や精霊をかたどった彫刻
  • ログ・コフィン(死者の骨を入れる円筒形の柱。その外周には絵画が施される)
  • 特別な儀礼の際に使用される、鳥の羽で飾られたモーニング・スター・ポール
  • パンダナスと呼ばれる植物の繊維を編み込んで作るディリー・バッグ(ブッシュ・フードを集める時に頭にかけて使う生活用品として、また儀礼の際にも特別なペイントを施して使われる)

など。これらは美術館やアート・ギャラリーでしばしば見ることができるアーネム・ランドのアボリジナル・アートだ。

残念ながら絵画を除くこれらのアートが、いつぐらいから作られ始められたのか知る術がない。というのは獲物を追って移動生活を繰り返しているアボリジナルの人達は、荷物となるものは持たずに、必要なものを行く先々で新たに作りだしてきたからだ。しかし、絵画においてはおよそ5,000年前に描かれたと思われる岩壁画が今でも残されている。そしてその岩壁画に描かれているモチーフは、今なお彼らが描く樹皮画に見ることができる。僕たちの現代的絵画の視点から見れば、「なぜ同じモチーフを変わらずに描き続けるのだろう?」と疑問に思うかもしれない。しかし変わらずに描き続けることが彼らにとって絵画を描く真意だとしたら、そこになにが秘められているのだろう。

2. 樹皮画はどうやって生まれたのか

アーネム・ランドの代表的な絵画の一つに「樹皮画」と呼ばれる絵画がある。これは、木(主にストリンギー・バークというユーカリの木の一種)の樹皮だけをきれいに剥ぎ取り、それを平らに伸ばしたものの裏側をキャンバスとして使う。絵の具は自然から取ることのできる赤茶・黄・白・黒の4色を用いて植物や動物などのモチーフを描いていく。世界的に見ても、樹皮をキャンバスにした絵画「樹皮画」は、あまり例を見ないだろう。そこで「どうして彼らが樹皮をキャンバスとして絵を描くようになったのか?」そのきっかけを少し探ってみよう。

そのヒントとなるべきものは、彼らの生活様式にある。狩猟採集を基本とした生活では、獲物を追って移動をしながらの生活を送るので特定の家屋を持たなかった。アーネム・ランドでは乾季(5〜10月)と雨季(11〜4月)に分れた熱帯気候に属する。乾季の間は日よけに、雨季の間は雨よけに即席の小屋(Bark Hut)が作られた。その小屋の天井や壁には、前述のストリンギー・バークの樹皮が使われていたようだ。

雨季の間のアーネム・ランドは凄まじい!スコールのような雨が断続的に降る。降り注ぐ大量の雨は細い川から徐々に太い川になり、水かさが増え洪水を起こし、道路の一部は水没してしまう。乾季の時には車で走れる道でも通行禁止になるほどの雨量があるのだ。もちろんこんな時には外に出ることもなく、雨よけ小屋で過ごす時間が長くなる。そのような雨に閉じ込められ、何もすることのない雨期に、身近にある素材である家の壁、つまり樹皮に絵を描き始めたのが始まりだと言われている。

余談ではあるが、その他にも樹皮は彼らの生活用品として日常的に使われている。例えばペーパー・バーク・ツリーの木からはがした樹皮は、樹皮画に使われるものより薄くペラペラとしているので、火を起こす時の種火として使用したり、赤ちゃんを包んだり、食事の際にはお皿として使われたりもした。このように樹皮はかれらの衣食住の身近な場面で使われているのである。

3. 樹皮画の素材

樹皮がどのようにキャンバスへと変わっていくのか、そして樹皮画を描くためのその他の道具について触れていこう。

樹皮を剥ぎ取る作業は、雨季の始まる時期、雨が止んだ後に行われる。まず、樹皮をはぐのに適したうねりの少ない木を選び、その木の幹の周囲を横にグルッと背の高い部分と低い部分の2箇所に切り込みを入れる。その上下の切り込みをつなぐように縦にまっすぐに切る。すると樹皮は水分を含み柔らかくなっているため、バナナの皮をむくかのように簡単にはぎ取ることができるのだ。残念ながら樹皮をはがされた木は水分を吸い上げる事ができなくなって枯れてしまう。そのためか、彼らはできるだけ大きく樹皮をはがそうとする(時には人の背丈の二倍になるほどだという)。はがされて間もない樹皮は丸みを帯びているので平らに整えられ、その上に石や丸太を置き乾燥させる(時には、たき火の炎にかざし水分をとばす)。樹皮は時間の経過と共に元の木の形に戻ろうとして丸く歪んでいくので、樹皮の上下に枝がくくり付けられ補強される。また表面を滑らかにするために、樹液や海がめの卵黄が使われたりもする。

次は絵の具と筆だ。伝統的には、赤茶や黄色のオーカー(天然の顔料である岩石)、白色(白粘土)、黒色(炭、もしくはオーカー)をそれぞれパレットとなる平らな石の上でこすり水を混ぜて作る。ちょうど習字に使われる墨と硯を思い描くと容易に想像して頂けるだろう。筆は、植物の茎を歯で噛み砕きブラシ状にしたものや、細い線を描くのにはちぢれていない毛髪を短い木の枝の先端にとりつけたものを使ったりもしている。しかし、近年では市販されているアクリル絵の具と筆が使われていることも少なくはないようだ。さらにはキャンバスも布製のものや紙製のものが使われることもある。要因のひとつとして考えられるのは、アボリジナルの人々の村にも生活用品を販売する店などが建ち、これらの用品を容易に手に入れることができるようになったからかもしれない。

樹皮にオーカーで描かれている絵画は、紙・布製のキャンバスにアクリル絵の具で描かれた絵画にくらべて、より素朴さと力強さが感じられる。それは人の手で削られたオーカーのまだ荒い粒子が作り出す質感や、幹からはがれたそのままの凹凸を残す樹皮の表情が、紙や布、アクリルでは作り出すことのできない独特の自然の風合いをかもしだすからだろう。そして、樹皮画がなぜか僕らの心を打つのは、樹皮画の中に「アボリジナルの人々と自然との密接なつながり」を見出すことができるからなのかもしれない。

4. 樹皮画に見られる特徴 〜クロスハッチング〜

僕がオーストラリアの美術館やアート・ギャラリーに連日、足を運んでいた頃、僕の目に何度となく飛び込んできた鮮烈な樹皮画の表現手法がある。それは赤茶、白、黄、黒色の極細の平行線が緻密に交差するように描かれたクロスハッチングという技法だ。この技法は絵画の一部分だけに施されたり、画面全体を覆いつくすように施されたりとさまざまではあるが、その存在感には思わず目を奪われてしまう。そしてこの技法は絵画や彫刻だけに限らずディジュリドゥにもしばしば描かれてもいるのでご存知の方は案外多いかもしれない。

その後、一体どうやって緻密なクロスハッチングが描きだされていくのだろうか?と疑問に思っていた矢先、偶然訪れたアボリジナルの村でアーティストがクロスハッチングを描いている光景を見ることができた。「これで謎が今解き明かされる!」と、高まる気持ちを抑えながらその光景にくいついていた。と同時に一抹の不安が脳裏をかすめた。

というのは、この村を訪れる前にある知人から、「クロスハッチングを描く時に使われる筆は特別なもので、人の髪の毛を束ねたものが使われたりするんだけれど、なかでも日本人の髪の毛はコシがあって直毛やから使いやすいらしいで。」と聞いた事があったからだ。その記憶が頭のなかをよぎった瞬間に、「もしかして自分の髪の毛を切られるんじゃないか?」と不安になったのだが、彼がおもむろに取り出したのは市販されている筆だった。これには安心したような、でも少し残念なような複雑な気持ちが残った。

そのまま作業を見続けていると、まず彼は筆にたっぷりの絵の具(ちなみにこれも市販のアクリル絵の具だった)を含ませ、キャンバスに筆の先端をぺったりと寝かせるようにして手元におき、それを手元から徐々に手を伸ばすようにして前に筆を滑らせて行く。この描き方には正直少し驚いた。なぜなら、僕が頭に思い描いていたのはクロスハッチングを描く時には、筆を横に滑らしていくのだろうという固定概念があったからだ。そんな驚きをよそに、彼は黙々と筆を滑らせていく。まさに「筆を滑らせる」という表現が本当にぴったりで、この手法だとなぜか手が震えて線がぶれるという事が少なく、スーッとまっすぐの線を描く事ができるから不思議だ。

一つの色を描き終えるとその色が乾くまでしばし休憩。大きなマグカップで飲み物をグイッと飲み、乾き終わると違う色でその乾いた線の上を交差させていき、次々と画面を覆っていく。そしてクロスハッチングが書き加えられた絵には、まるで生命を吹き込まれたかの様に生き生きとした表情が画面全体に溢れていた!それは描かれたモチーフが絵画という一枚の世界のなかで、交差する線が流動的な動きを持ち、揺らめき輝くような感覚だった。 (この時はあまりにクロスハッチングを凝視しつづけていたため目がチカチカとしていたからなのかもしれない)。

さらにクロスハッチングという技法には、下地から数えると一範囲において合計で三色もの色が交互に使用されているため、平面絵画でありながら、非常に立体的であり、躍動感に魅せられる。そこには描かれるモチーフによっては祖先とのつながりをもたらすといった極めてスピリチュアルな要素も含まれている。それは神話のなかの精霊が始めて地上に現れた時の体の模様がクロスハッチングであったことに由来するのだという。

5. 樹皮画のモチーフ

アーネム・ランドの樹皮画では、動植物、自然環境や季節、自然界にある特別な場所やモノやパターン、精霊、祖先の英雄や神々のストーリー、日常生活や儀礼の様子、歴史的な出来事などがモチーフとして描かれている。具体的な一例を下記にまとめてみた。

【動植物】
カンガルー、ゴアナ(大トカゲ)、首長カメ(淡水の水場に住むカメ)、ワニ、海ガメ、ジュゴン、サメ、ヤムイモ、ウォーター・リリー(睡蓮)など。日常の食料や各個人のトーテムとしてつながりの深いもの。
【精霊・祖先】 
ミミ(人に狩りや踊りを教えたとされる精霊)、サンダーマン(雷や雨に関わる精霊)、虹ヘビ、マーメイド、創世神話の神々や英雄叙事詩の登場人物など。
【自然物】
星、月、天の川などの天体や、岩、水場など特定の神聖な場所にかかわるもの。
【日常の風景】 
狩りの様子、儀式の様子 などが描かれている。

彼らが樹皮画に描くモチーフは、僕たちの目には単なる芸術作品としてうつる。しかし、その「描かれている内容」は、単に風景や動植物を見て思いつきで描いたり、自分の発想のみで自由気ままに筆を走らせて描いたりしているわけではない。

樹皮画を描くアーティストは、各個人のクラン(言語グループ)にとって重要なトーテム(ネイティブ・アメリカンのトーテミズムとは異なり、人と動植物がまるで実際の親族であるかのような関係性がある)として動植物や自然界を描く。しかもそれらを描く時には、各アーティストの癖や特徴があるとはいえ、基本的には先祖代々変わる事のない特定のパターンや特徴を持って描かれるのだ。それらは時にその特定のクランにとって秘密性があったり、神聖なオブジェクトやパターンであったりするので、彼らが見ればそこになにが描かれているのか読み取れるのだという。

このように樹皮画に描かれているものは、僕たちが思いもよらない意味や神話的出来事などが封じ込められているのだ。だから本当の意味でアボリジナルの描く樹皮画を楽しむには、「そこに描かれているなにか?」に連なるストーリーをひもとく必要がある。だから、そのアートを描いているアーティスト自身にその意味を説明してもらえれば、もっと生き生きとそこに込められたテーマを感じることができるだろう。まさにその機会がきたる6/3(sat)の日本民家集落博物館でのイベントと言える。

6. 樹皮画に込められていること

前章で樹皮画には「モチーフに付随するストーリー」があることは述べた。これこそがアボリジナル絵画の大きな魅力のように僕は思うのだ。それは絵画を通じて彼らの文化、思想、生き方に触れることができるからだ。

樹皮画に込められた物語。それは天地創造の神話や人の誕生の起源、自然現象、禁止事項(タブー的なこと)について、などと様々である。そしてそれらは、彼らの祖先が大地の上を旅する過程で、名前、動植物、自然の風景・地形、儀礼、歌などを作り出したことに起因している。それは現在のアボリジナルの人々をとりまく世界のなりたちを示し、彼らと祖先、自然界とのつながりをより深くするための物語なのだ。

これは僕個人がアボリジナル絵画に対して感じることで想像の域をこえることはないのだが、創生神話における世界のなりたち、またデザインに関する知識の伝達、共有の手段として樹皮画を描いているのだとしたら、樹皮画は彼らにとって知識を学び得る「教科書」にほかならないのではないか?

雨が降りしきる雨季に年長者が樹皮に絵を描き始める。その傍らで子供たちが「何を描いてるの?」と問いかける。年長者は「これはな.......なんだよ。」と子供たちに語りながら絵を描き進めていく。こういった事がバーク・ハットのなかで遠い昔から続けてこられたのであろう。

そんな情景が目に浮かぶと、彼らが繰り返し同じモチーフを描き、抜け落ちてはならない物語、デザインを連綿と描き続けてきたことにもうなずける。すなわち彼らが描く絵画の本質とは、「祖先から脈々と受け継がれてきた知識や伝統」を絵画という一つの世界の中で繰り返し再生し、後世へと伝えていくことだと思う。そして、絵画の中で描かれている事と全く同じ事が、唄や踊りで表現されたりもするのだ。

彼らは絵画の物語について多くは語らない。そして僕たちが知ることのできる物語には限りがある。しかし彼らが絵画を描く姿、由来、生活の風景に思いを馳せることで彼らの文化の一端に触れることができるのだ。

7. おわりに

現在オーストラリア国内の美術館やアート・ギャラリーの多くでアボリジナル絵画を見ることができる。僕が美術館などでアボリジナル絵画を目の前にした時に決まって思うことがある。「よくわからない絵画やけども美術館で展示されてるからには、すごい人のすごい作品なんだろうなぁ。」と、漠然と感じてしまうことだ。それは見知らぬ絵画を目の前に、近代的な建物とフレームに収められた絵画の持つ雰囲気に呑み込まれているような気持ちになることと似ているかもしれない。しかし僕が彼らの村に滞在した時に見たアボリジナル絵画はそんな印象には程遠いものだった。

見渡す限り続く緑の大地には、土の匂いと共に風が吹きぬける。上を見上げると人工的なものは一切感じることのない無限に広がる青く澄みきった空。時折遠くにいる犬たちと遊んでいる子供の笑い声が聞こえてくる。そんななか大地に腰を下ろし、筆を走らせるアボリジナルの人を眺め続けているとなぜだか時間の流れがゆるやかになり、自分も含めて彼らが雄大な自然に溶け込んでいるような感覚がした。この時、「何千年とアボリジナル絵画はこうやって描き続けてこられたんだろうなぁ。」と思うと同時に美術館やアート・ギャラリーに飾られている絵画を見た時に感じた絵画の印象が音をたてて崩れていくのを感じた。

完成されたアボリジナル絵画はオーストラリアの様々なアート・スペースで簡単に見ることはできる。しかしアボリジナル絵画が描かれている様子というのはオーストラリアに行ったとしてもなかなかお目にかかることは難しい。今回、日本民家集落博物館で行われるアボリジナル絵画の実演はより自然に近い状況での開催を予定している。その中で見ることができるアボリジナル絵画というのは、美術館で見るそれとは少し赴きの異なった印象を感じることができるかもしれない。この機会に足を運ばれてみてはいかがだろうか?

-大八木 一秀 2006.5.1-
トップ アーネムランド ブラナシストーリー グンボーグダンスソングを知る アボリジナル絵画 ダリルインタビュー
>>トップ 
Organized by Loop Roots
loop_roots@jk2.so-net.ne.jp
©2006 Loop Roots All Right Resarved. このサイトの文章・画像は無断で使用することができません。