シリーズ講議:アボリジナルの文化と社会
【第3回】「ガミラロイKamilaroi (Gamilaroi)
―ニューサウスウェールズ州大農場地域の地方町とアボリジナル―」/2005.4.17 |
1.はじめに
アボリジナル人口(2001年センサス)
総人口(含むトレス海峡諸島民) : |
41万人 |
NSW : |
アボリジナル126,231人 トレス諸島民4,770人
計134,888人でQLD州についで第2の先住民人口規模 |
州別の先住民人口比 : |
NSW27%,QLD29%,WA14%,NT12% |
先住民人口の増加(全国) : |
1986年以来増加。
91年17%、96年33%、2001年16%各増加。
NSWは2005年18%増。 |
NSWのアボリジナル・コミュニティ
州総人口に占めるアボリジナル人口(含むトレス諸島民)2%
コミュニテイの分布(図1)
図1. NSWのアボリジナル・コミュニティ(ADCPの資料による)
2.ガミラロイの被植民化の過程
(1)ガミラロイの領域
NSW北西平原(大分水嶺山脈の西側)75,000平方キロ。その広さはタスマニアないし北海道に匹敵(図2)。人口は15,000人以上と推定。
現在は近隣集団と連合してマリー(マディMurry)のなかのガミラロイ・ネーションを自称。
図2. ガミラロイの領域
(2)被植民地化の過程
1820年代 |
ハンター谷に入植。この地域のガミラロイはシドニー(人口10万人)へ |
1831年 |
ハンター谷からガネダへ |
1826年 |
バサーストからカーナバラブランへ入植。
ガミラロイは南部を挟撃されるように被植民化。 |
1831年 |
トマス・リビングストン・ミィッチェルはナモイ河、グワイダー河、バーウオン河流域調査。ガミラロイ主要部への入植の途を開き、相次いで牧場開設。主要河川流域はガミラロイの主な居住地であるとともに、好適な入植地。居住地の剥奪。人口減少(20世紀初頭800人)。牧場への依存。 |
1838年1月 |
ウオータールー・クリーク、6月マイオール・クリークでの虐殺。 |
1905年 |
最後のボーラ儀礼(バイアミとダラムランの信仰に基づく成人儀礼)。
バイアミ:空から降りたった巨人。人(ガミラロイ)の祖先を創造。法を与える。
ダラムラン:バイアミの妻。人とバイアミをつなぐ。悪魔的性格も。
1894年と95年のボーラ儀礼は、ガンダブロウイとタルウッド牧場で開催(図3)。 |
1889年 |
牧場でのガミラロイの労働(表) |
表1. 労働と賃金, その使途:RBR 1889年 |
Credit |
10.1 |
Balance |
14£.3s.3d. |
31 |
4 weeks+ |
|
|
3 days. 10/s |
13£.10s.0d. |
11.1-30 |
4 weeks+ |
|
|
2 days. 10/s |
13£.0s.0d. |
12.1-6 |
1 weeks+ |
3£.0s.0d. |
|
Log falling 192bl 1/2 |
8£.0s.0d. |
|
Log drowing 760 |
15£.2s.0d. |
|
|
44£.15s.5d. |
|
Debit |
10.31 |
Debit a/c |
10£.8s.3d. |
11.7 |
Cheque |
1£.0s.0d. |
11.25 |
Cheque |
2£.0s.0d. |
11.30 |
Cheque |
5£.0s.0d. |
|
Cheque |
1£.5s.5d. |
12.2 |
Cheque |
2£.0s.0d. |
|
PDY |
1s.0d. |
|
BLL |
5s.7d |
|
MITS |
3£.16s.7d |
|
3 Youtls |
1£.4s.0d |
|
55 bls Flours |
11s.3d |
|
Sugar |
2s.4d |
|
|
31£4s.0d |
|
Cheque |
13£18s.0d |
|
Cash |
5s.7d |
|
|
44£7s.7d
(45£.7s.7d?) |
|
Eddie牧場「Station Ledger Book」による。
PDY, BLL, MITSは人名、Youtlsは意味不明。
金額欄の£はポンドを、sはシリングを、dはペンスを表す。
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3.大農場地域の地方町モリー、ウオルゲットとアボリジナル
〜NSW北西平原の小麦・綿花・牧牛・牧羊地域の地方町〜
(1)モリー Moree
モリー: |
朝日が昇るところ。サイロ以外に高い建物のない静かで穏やかな地方町。 |
人口: |
約7,000人内アボリジナル(ガミラロイが中心)人口約2,000人。役場の公式推定アボリジナル人口は約3,000人。「土地委員会」の推定は約4,000人。 |
現在の居住地: |
ミーハイ・ミッションとスタンリー・ビッレジ、ソーピイ・ロウと街区(とくにジェームス通り西端 図3)。 |
現在の職業: |
一部を除いて社会補償金で生活。他に綿花畑の除草(季節労働)。 |
1861年 |
モリーの町開設。その後30年間に病院、教会、銀行開設。地方紙発行。 |
1890年頃 |
くり返される排除に抵抗。 |
1900年代初め以降 |
周辺地域からの移住者増大。最初の居住地はミドル・キャンプとなり、あらたにボトム・キャンプ(現ミーハイ・ミッション)、トップ・キャンプ(現スタンリー・ビレッジ)など5カ所の居住地形成。干ばつ、大洪水、不況、モリーの成長が彼らを引き寄せる。 |
1930年代 |
ボトムにミーハイが、トップにスタンリーが建設され、他の3カ所の居住者を収容。現在の形に。 |
1940年代 |
街区での居住者出現、白人との混住始まる。 |
1965年 |
フリーダム・ライド、差別告発。 |
現在 |
アボリジナル(ガミラロイ)内部の経済格差増大。豊かな人びとをUp Town Blacksと彼らは呼ぶ。 |
図3. ガミラロイの居住地 Moree
(2)ウォルゲット Walgett
ウオルゲット: |
2つの河川が合流するところ。モテルは鉄冊、商店の窓には金網。 |
人口: |
約2,300人内アボリジナル人口(ガミラロイが中心)約1,000人。但し、町役場の推定では総人口の60%がアボリジナル。先住民がマジョリティの町。小・中・高校生徒の95%以上がアボリジナル。
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現在の居住地: |
町を10km離れたギンギ・ミッションとナモイ、および街区(特に北西端と南西端の各4ブッロク、トップとボトム・キャンプとよぶ。図4)。 |
現在の職業: |
モリーに同じ。 |
1851年 |
ウオルゲットの町開設。直前の1849年Native Policeこの地域のアボリジナル(ガミラロイ)の抵抗鎮圧。その後20年間に地方紙発行。郵便局、銀行など開設。 |
1860年代 |
アボリジナルの牧場への依存が顕著となる。 |
1889年 |
ナモイ・リザーブ開設。牧場のアボリジナルを収容。 |
1895年 |
ギンギ・リザーブ(後のギンギ・ミッション)開設、街区周辺居住者の排除が目的。アボリジナルの抵抗さかん。 |
1925年 |
ナモイ居住者をギンギに強制移住。 |
1936年 |
アングルドゥールAngledoolアボリジナル・ステーション閉鎖。住民はギンギとナモイに流入。 |
1941年 |
ギンギはアボリジナル・ステーションとなる。この頃人種隔離が極みとなり、アボリジナルと交わる白人もアボリジナルとみなされる。 |
1950〜60年代 |
牧場でのアボリジナルの雇用、機械化により極端に減少。多くがウオルゲットへ流入。 |
1965年 |
フリーダム・ライド、差別告発。 現在、アボリジナル(ガミラロイ)内部の経済格差拡大。街区居住者の裕福層をUp Town Niggersとよぶ。ロウティーンのDV、器物損壊、盗み横行。15歳以上のセックスと薬物。極端に若い親の出現。 |
図4. Walgett
4.まとめ
アーネムランドや中央砂漠地域のアボリジナル・コミュニティとは全くちがった人びと の存在。オーストラリア社会のもうひとつの現実。そのなかで、いま、一部の人びとによる言語回復をはじめとする文化復興運動おこる。しかし、前途は多難。
*注 NSWにおけるミッション(ミーハイ・ミッションなど)
アーネムランドなどのように、ミッションはキリスト教会各派が建設した伝道所を核にするアボリジナル集落を意味しない。アボリジナル・ステーションが正式な(行政上の)名称で、州政府が指定した土地にアボリジナルを集住させ、政府が派遣した監督官が駐在する(すべてを統制した)集落をいう。
リザーブは監督官が駐在しない集落をさす。NSWでは植民地政府の時代から、キリスト教会各派によるアボリジナルの統制を排除してきた。しかし、現在でもアボリジナルと白人を問わず、アボリジナル・ステーションをミッションとよんでいる。牧場(パストラル・ステーション)と区別するためである。
図5. 旧ステーション(ミッション)とリザーブ