この短い論説はいくつかの用語について論じ、それを明確にしたり、最近の一般的な出版物に見られるヨォルングの世界観についての虚偽や、作り話を正す目的で書かれています。これまで、ヨォルングとその世界観、そしてオーストラリアのアボリジナルの人々全般について、数多くの事が書かれてきました。それらの書籍ではどんな固有のアボリジナル・グループが持つ信仰も全オーストラリア的なものであるという共通の認識があるが、この考えは事実からかけ離れており、たとえ一つの文化圏内でさえ、神話的、宗教的な信仰に多くの多様性があるのが現実です。ヨォルングもその例外ではない。このようなアボリジナルの人々の信仰の多様性について厳密に述べている書籍がいくつかあるのだが(下記の「おすすめの書籍」を御覧下さい)、それ以上にヨォルングの宇宙認識はより複雑なものであるようだ。下記の私の文章では、私も総合的に述べる必要がある。というのも、私自身がより深遠な特別な知識に関与していないからで、それは私が彼等の文化的信仰について他の人に話す立場ではないという事であり、またそれは彼等ヨォルングのもとだけに留めておくべき事なのだろう。 だから、この論説そのものも全般的な性質をおびている事に注意し、東アーネム・ランドの一部に住むヨォルングの人々が持つ真実は、同一の文化的/言語学的地域の別の場所でも必ずしも同じではないという事を認知していただきたい。 - - - - - - - -
我々の現実観は、実生活の中の有形的で物質的な次元で成り立っているのに対して、ヨォルングは、私達とは全く異なった世界観を持っている。ヨォルングは、目に見える事を「アウトサイド(外側)」、見えるものから隠れている事を「インサイド(内側)」と表現することがあり、このような考え方もまたヨォルングの現実観なのである。このような万物に対する内側的な側面を持つ知識は、ヨォルングにとって不可欠なものであり、外側的側面を持つものよりもかなり重要視されることがある。ヨォルングは、精霊、亡くなった人の魂や、病や死をもたらす悪意を持った霊の活動、そして病気を直す有益な霊などの霊的な存在を信じている。 ヨォルングは、自分達がクランの水域の中の奥底にある秘密の世界からやってきたのだと信じている。その場所はクランの所有地、池、あるいは川の中にあり、クランの全ての人達はそこから現れ、そこへ戻っていく。彼等は生まれる前はそこにおり、彼等が肉体的な姿で現れる、つまり「アウトサイド」にやって来る前に、すでにそういう存在として自己のアイデンティティを持っているのである。 ヨォルングの宇宙では、全ての生き物がこのような内側と外側の現実と、このような二元性のある姿を持っているようだ。ヨォルングの世界観では、必ずしも彼等が「アウトサイド」に出てくるという事もない。時には、彼等がアウトサイドにいる時には、我々が期待するような事は何もなく、こちらの次元からあちらの次元へと移動する時に、生き物はその姿を変形(ヨォルング語でDjambi)しうるという事もある。例えば、ある魚と惑星は、一体であり、同一なのです!! 太陽は、海に沈むとバラクーダ(カマスのような魚)へと姿を変える(インサイドへ入る)、そしてアウトサイドへやって来る(太陽が昇る)時に再び元の姿に戻るのです。このように、明らかに無生物の物体が人や動物の姿となって動き回るのです。例えば、歌や物語の中で丸木舟を表す時には、丸木舟は眠っていたり、立っていたりする。このような(事象の中にある)特徴を知覚することは我々には難しい。それは我々がヨォルングとは違った方法で時というものを知覚しているからなのだろう。 万物の内側の次元にこそ、その本当のアイデンティティがあるという考えは、イモ虫が蝶へとなる時に誰もが見る事ができる肉体的な変化の中に明確に現れている。ヨォルングは、ある時に変化し、外側の世界へと抜け出していくイモ虫の中に、その隠された、内側のリアリティがあると考えている。蝶とイモ虫、両者の内的本質は、同一で、我々の目には様々な時々に、様々な見え方で現れるだけなのです。蝶のように目ざましい変態を行う昆虫はたくさんいるが、その現象はいまだ完全に解き明かされてはいない。成長すると飛行する捕獲者になる水性肉食昆虫、蜜を吸うハエになる肉食のウジ虫など。(オーストラリア北部の魚バラマンディは、みなメスとして生まれてくるが、成熟するとオスへと変化するものが出てくる) そして不可解にも、このような異なる時間認識が、「ドリーミング」や「ドリームタイム」についての混乱を招いているのかもしれない。この二つの言葉は、伝統的なアボリジナルの人々が、自分達の祖先の過去や、現在を理解し、関係する方法を不適切に表した言葉である。複雑な概念の本質を伝えるには、一つの単語よりもむしろ、小論全体を必要とするだろう。 ヨォルングは、時間というものを私達とは異なった尺度で認識しており、それは過去、現在、未来が、我々の知っているようには存在していない、時間の連続体なのです。「ドリーミング」とは、遠い祖先の過去、現在、未来であり、俗世的な日常から隠された別の次元、つまり「インサイド」の世界なのである。ヨォルングは、内側の世界は変わる事は無いと信じているので、この内側の次元はいつも同じであり、それから(我々のために)拡大解釈すれば、変化が無いという事、それは時間の概念がなくなるという事なのだ。違っているのは、時間の尺度/質なのではないだろうか?確かに、ヨォルングは「遠い昔」「昨日」「現在」「今日」「明日」「未来のある時」に相当する言葉の幅を使い分けており、我々が理解できる範囲を越えた説明しがたいものがあるのだ。 「W^\a」は文字どおりの意味は「家、もしくは土地」で、クランの人々が、住み、狩りをし、収集をおこなうクランの所有地を意味する。ヨォルング語の多くの言葉に見られるのだが、「W^\a」という一つの単語が複数の他の物事を意味する(英語の「home」でさえいくつかの意味がある。人が住む場所、生家、ゲームにおける出発点など)。クランの土地内には、クランに属する人々にとって、祖先伝来の故地ホームランドがあり、その場所はまさに彼等の本質的なものがわきたつ所である。誰かが常にその場所に住んでいるとは限らない。そのような場所は神聖な水場である事が多く、そのクランの土地内の万物が生まれ出づる場所であり、人は、「アウトサイド」に出てくる、つまり生まれる前にいた場所である。その場所には、やがて生まれる魂と亡くなったクランの人々の魂がある。そのクランにとって重要な万物がそこに存在しているのである。彼等の過去/祖先、未来、そして強力な物体(ra\ga)が、彼等の祖先がそこに住んでいた時、あるいは土地の中のある道を通って旅してきた時にその場所に残されたのだ。この強力な物体は、祖先の物質的な名残りで、祖先達の精が含まれている。また、これらの物体はヨォルングの言葉で「|araka」と呼ばれ、文字どおりの意味は「骨」である。彼等が、祖先と肉体的な類似点があろうとなかろうと、「インサイド」では彼等は一つであり、同じであり、実際にはその一部なのだ。つまり、人と土地は切り離す事ができない。彼等は、同じアイデンティティを持ち、人々は土地と関係が深く、正確には彼等は、実際の親族(gurru=u)に接するかのように土地とつながっている。彼等には、その土地出身の人々を強く結びつける親類関係があり、それと同じ関係が土地にもあるので、自分達の土地を「母」、あるいは「母の母」と呼ぶのである。親類関係の図式が、そのまま土地にもあてはまる。このような神聖な物体(ra\ga)が隠されている間は、「インサイド」にあり、儀式のために「アウトサイド」に持ち出され、それと共に固有のパワー(ganydjarr)、知識(物語、図案など)がもたらされ、そして出席者にその秘密を明かすことでその正体を知らせる。同時に、過去を現在へと導きだすのだ。 「ソングライン」という言葉は、祖先の神々が古代に大地を旅した時の彼等の活動を詳しく語るひと続きの歌/ストーリーを表現して、作家Bruce Chatwinが使った言葉で、後にそれが普及した。昔は民俗学者らが「ソングサイクル」という言葉を使っていたが、現在ではこのような「ドリーミング・トラック」がオーストラリア全土にわたって途切れずにある道すじだという誤った概念を作り出すニュー・エージ運動(と専門的な社会経済規範)によって誇張され、宣伝されている。このような幾分失礼な考えは、オーストラリア国内におけるアボリジナル文化の多様性と、個人のアイデンテイを主張し、保持する必要性を考慮していない。 ある特定の祖先の神々の活動とその旅路は、様々なヨォルングの物語や歌の中で詳しく語られており、実際にクランの所有地を、あるいは「Dja\'kawu」や「W^gilag」のような神々が、アーネム・ランドの北東端全域(数百km)を横切ったのだという実例があるが、それには始まりと終わりの場所がある。彼等は砂漠や、完全に異なる文化圏(言語的、文化的単位)にはその歩みを進めなかった。ヨォルングは、これらの神々の旅の始まりと終わりの場所を越えた先で、それらの神々に何が起こったのかは知らないのだと述べることがあり、ヨォルングはそれらの神々の行く末を気にしてはいないようだ。 ヨォルングの人生は、自分達のアイデンティティの本当の意味、自分達の宇宙、そしてその中にある自分達の場所の本当の意味を学ぶという事と、クランの知識を積むという事にある。儀式の参加者達は、個人のアイデンティティの様相を知る。だから、彼等は最後に息を引き取り、「インサイド」へ戻るまで、旅路の途中で自分達が関係している歌と踊りの演奏に助けられながら、儀式を続けるのである。 儀式の際、人々の儀式に対する責務は、親類関係によって決定付けられる。上述したように、親類関係は、互いのクランの祖先への関係の仕方と同じである。また、儀式を行うことによって、グループ間のつながりを確認し合い、他の血族/グループ間の結びつきを強め(上述した「Dja\'kawu」と「W^gilak」ような同一の祖先がある)、グループ全体のアイデンティティを表す相違点を明確にする事になる。クラン間で共通の信仰を持っている事もあるが、同時に自分達のクランの土地に関する独自の信仰も存在する。儀式の際には、これら共通の信仰と独自の信仰がより強められる。つまり、儀式を通じて、それぞれのクランのアイデンティティと、クラン間のつながりがたたえられるのである。例えば、「Dja\'kawu」と「W^gilak」ような祖先の旅は、全てのDhuwa半族に属するクランを一つに結びつけるが、Yirritja半族の言葉、クランの所有地、そしてクランのアイデンティティなどの起源は、Yirritja半族の祖先にある。同じ人々、同じ文化だが、異なった信仰を持っている。 ペインティングの際には、(商業市場では)作品の価値を高めるため、あるいは自然界における特有の美しさを作品に反映させるために、画家は芸術性を作品に盛り込むよう努める事があるが、それぞれのアートワークが自分達のクランの所有地であり、「内なるリアリティ」のアウトサイドへの一つの表現であり、そして画家自身のアイデンティティの物質的表現であるため、正しいテーマと図案を描くという事がより重要なのである。画家は、自分の作品に変化を加えることがあり、そういった変化によってその作品がその作家によって描かれたという事を見分けるのだが、テーマの題材や図案はかなり厳密に決まっている。ペインティングとその図案には、クランの土地に代々受け継がれている権利が暗号化されており、隠喩的な手法で「内なるリアリティ」の一面が描かれているのである。我々があまり意味の無いものであると感じるどんなペインティング/デザイン(miny'tji)にも、階層的な深い意味合いがある。ペインティングのテーマが、明らかにある特定の動物や鳥であり、その動物や鳥の名称であっても、その画家とその画家のクランの人々(あるいはそのクランの土地に関する知識のある人や、その画家の土地と特定の関係にある人)にとっては常に別の意味合いが存在する。彼等は、あるテーマを自分達の「トーテム」だと言うことがあるが、この言葉は、彼等とある生物達との関係を我々が理解しやすいように、我々が使っている表現を彼等が取り入れたものである。トーテムという言葉は、ネィティブ・アメリカン(Ojibway)の言葉に由来し、クラン、グループ、家族などの単位の集団にとってその象徴として使われる何かを表しているようだ。この言葉の西洋的定義では、「崇拝」という意味合いが含まれるが、これは間違った解釈であり、ヨォルングにとってのその関係は、生物が(神として)崇拝されるトーテム的なものではなく、個人と動物や鳥などの生物が、まるで実際の親族であるかのような関係なのである。共に同じ大地から生まれ出ている人間と生物。それらは、共に違った姿でアウトサイドに現れるが、インサイドでは同じなのです!! このようなインサイドでは同一の物体/生物に対する帰依、あるいは敬慕があるという点でのみ、彼等の関係に崇拝があると表現されうるだろう。 ヨォルングにとって、誰か他の人に属するテーマの題材や図案を描くという事は、他人のアイデンティティの一面を描くという事である。このような事は、その図案の所有者から(自分達のクランが途絶えようとしているといった場合など)特別な許可がおりない限り許されない。また、ペインティングの図案やテーマの題材は、クランやグループの全ての人々に属しているため、個人がそのような事を決定するという事はありえない。言語や、Manikay(クラン・ソング)、クラップスティックのリズム・パターン、そしてRa\ga(特別な物体)のようにペインティングとその図案も、それらが属するグループとその人々に所有されているのである。ペインティングは樹皮に描くことがあったが、白人と接触する前は、たいてい儀式の際のボディペインティングとして描かれていた。それがアイデンティティの一面であり、イニシエーションの時には胸の上に描かれ、過去には中が空洞になったログ・コフィンと遺体に描かれていた。最近ではオーストラリアの法律のために、ログ・コフィンが埋葬に使われることはなくなっており、現在では埋葬の前に棺桶のふたにペイントが施されることがある。 ヨォルングのペインティングには、クロス・ハッチィング(Rarrk)と呼ばれる技法が共通して多く見られ、インサイドの一面を表す模様の一つである。クロス・ハッチングは、ペインティングにゆらめくような質感(Bir'yun)を与える。それが我々の目には不思議な感じに映るのだが、実際そういう感覚をえる時にはそのデザインのインサイドのパワーがアウトサイドへと出現しているのだと言われている。クロス・ハッチングは、ノーザン・テリトリー州のTop End全体ではなく、東西アーネム・ランドとGroote Eylandtで使われている伝統的な描画技法である。 ヨォルングは、個人の才能をその人のアイデンティティの一部だと見なしており、だれでも皆がコミュニティの生活の中でなんらかの役割を果たす事が大事だと考えている。全ての人が、日常生活と儀式的生活の両方において何らかの役割を果たしている。ヨォルングの生態と相互関係の知識の支柱となる哲学というものがあり、それは自然の実態の中からその規範が見いだされており、一個人が得る事ができるもの以上にすばらしい成果のために多くの人々が貢献するのである。たとえば、オーストラリア固有の蜂のある種族は、数千匹が住む巣を作る社会的な昆虫で、そのそれぞれには役割があり、共通のゴールに向かって共に働く。それぞれの蜂は、別の階級の蜂の仕事をすることはなく、自分の役割だけを果たす。巣の外側からはわからないが、蜂の巣からはまさにそういった協力関係で作られるユニークな物質、蜂蜜と蜜蝋がとれる。ヨォルングはこのような蜂の活動から、人生と親類関係におけるバランスと相互関係の規範を見いだすのである。 【Peter R Lister 2004】
推薦文献 ●『Saltwater: Yirrkala Bark Paintings of Sea Country』 Buku-Larrngay Mulka Centre (1999) ●『Knowledge and Secrecy in an Aboriginal Religion: Yolngu of North-East Arnhem Land』 著者:I. Keen (1994) ●『Ancestral Connections, Art and an Aboriginal System of Knowledge』 著者:H. Morphy (1991) ●『The Natural World of the "Yolngu" the Aboriginal People of North East Arnhem Land』 著者:J. Rudder (1999) |トップへ|
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