Peter Lister|イダキ奏者/ヨォルング文化研究者
Peter Listerのディジュリドゥ・ページ

8. 著者について

-目次-
 8-1. 著者について
 8-2. Peter Listerのディジュリドゥの経歴
 8-3. 現在のPeter Listerのディジュリドゥの演奏
 8-4. Peter Lister所蔵のイダキ
 8-5. Ed DruryによるPeter Listerのインタビュー(英語/※別サイトに飛びます)

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8-2. Peter Listerのディジュリドゥの経歴

警告 : このページでは、現在亡くなっているアボリジナルの人々の写真と、彼等についての言及が含まれています。これらのページを見たり、その内容を彼等に伝えたりすることで、彼等が傷付いたり、感情を害する可能性があるので、アボリジナルの人々悲しませるような事を避けるように御注意下さい。御協力に感謝いたします。

 


ディジュリドゥの伝統的な故郷であるTop Endからはるか離れたシドニーにいた頃、私は10才で、ディジュリドゥの吹き方を学ぶのは難しかった。私は我慢の限界にきていた。学校から帰宅すると、プラスチックのディジュリドゥでドローンの音を出したが、どうあっても同時に息を吸い、そして吐くという事が理解きなかった。8年後に、それが分かった.......頬に空気をためて、鼻から息を吸ってる間にそれを吐き出すのだと考えたのだ。やった!!しかしがっかりしたことに、私の楽器からは、私が聞いていたアーネム・ランドの古い録音と同じような音が得られなかったのだ。

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WomadelaideにてDavid Blanasiと著者
(WOMAD Festival, Adelaide, SA) 2001

そこで私はシドニーの博物館の外で唯一見たディジュリドゥを買いにでかけた。それは街の中心にあるBathurst通りのブッシュ教会援助協会のショーウィンドウの中にあった。その楽器が一体どんな音がするのか全くわからなかったし、わかっていたのはそれがMornington島からの本当のディジュリドゥであり、本物の楽器であるということが私にとって全てだった。

バスの通路で、長く茶色い紙包みを持って立っている私は奇異の目を集め、バスでの帰宅はいつもよりも長く感じられた。それが一体どんな音がするのか聞きたくてたまらなくなり、バス停から家までの約1.6kmの途中でついに梱包をといて演奏をしてみた。するとその楽器にはかなりの息の量が必要で、それがとても信じられなかった!!!!

どうやったらこの楽器で息を吸うことができるんだろうか? それは1mほどのパイプから本物のディジュリドゥへのビッグ・ジャンプだった。


最終的になんとかその楽器を演奏できるようになり、吹き続けた。それによってか、横隔膜が痛み、唇が割れた。それが1978年の事だが、いまだそれは直っていない。下記の画像の一番右がその楽器です。その楽器から出るサウンドは、私が持っていたアボリジナルの録音と同じではなかったので、まだ自分のサウンドに満足がいかなかった。

当時その音の差は楽器のせいだと考えていたが、経験を通じてそれは単なる楽器の違いではないという事がわかった。歌に対するリズムの組み合せがあり、(私が演奏すると)息を吸うことによって特有な音が発せられているということは明らかだった。私は頬を使っていたので、息を吸った時に劇的に音が変化する。そして伝統的な曲を演奏すると私の呼吸の仕方がおかしいので正しい音を得ることができなかったのだ。

頬を使わないで息を吸う方法があるにちがいない。私は空気を溜める場所として頬を使わないで息を吸うことができるという事が理解できるまで、頬を使わない息の吸い方に取り組んだ。しかし、最後には頬を使った演奏に戻ってしまうのでうんざりしてしまったのだった。

その頃、「Aboriginal Arts Board of Australia Council」と「Aboriginal Artists Agency」のような様々なグループが、伝統的なアボリジナルのアーティストをTop Endからシドニーへと連れて来はじめた。私が購入した最初のレコードの一つは、ディジュリドゥ・ソロの録音だった。北東アーネム・ランドの著明なアーティストであり、クラン・リーダーでもあるWandjuk Marikaによるソロで、この手の録音のさきがけだった。幸運にも彼やElcho島からの様々な演奏者に数回出会うことができた。

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Wandjuk Marikaと著者, 1980


jyidaki 私は1980年に別の楽器を購入した。当時、私はAlice Springsに住んでいて、現在ではAboriginal Art & Culture Centreという名称になったAboriginal Arts & Crafts Pty Ltdの店鋪にあった約50本の在庫から1本を選んだ。それはアーネム・ランドで作られた楽器だったが、書類はついていなかった。

画像の左から2番目がそのディジュリドゥです。

ディジュリドゥはTop Endでのみ作られていたが、現在ではあらゆる所で様々な種類のユーカリの木から作られている。それ以来、Yirrkala、Dhalinbuy、Raminginingのようなアーネム・ランドの様々な地域から伝統的な楽器を数本手にした。



私の古い写真を見つけました。いつも笑いのタネです!!

wdijul (左)Uluru(Ayer's Rock)でキャンプファイヤーを囲んで NT, May 1980。誰かの楽器を演奏しています。
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(上)オーストラリアの最高峰Kosciusko山にて演奏 南高原, NSW, 1980年後半と思われる。この楽器は、上述したMornington島からのディジュリドゥで、私の最初の楽器です。

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アボリジナルの少年達と
Maroota, NSW 1981
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NSW州国立公園と野生生物事業で働いていた頃のプレス用の写真。Hartley史跡, Blue Mountains, NSW, August 1981。白黒のこの2枚の写真で演奏している楽器は、1980年にAlice Springsで購入したものです。


1980年代後期にはディジュリドゥの商品化を目の当りにし、突然だれしもがディジュリドゥを演奏しはじめた。私が何故ディジュリドゥを吹くのかという事に対する他人の受取り方によって、私はディジュリドゥを演奏するのにうんざりしてしまったように思う。まるで自分の技術を宣伝してるかのようにはディジュリドゥを持ち歩いていなかったのに(実際、どこかに持っていく時にはやわらかい布のケースに入れていたし、ほとんどの人は釣りに行くのだろうと思っていた)、私がディジュリドゥを演奏できるという事を知っている人々は、自分達のために演奏してくれるように頼むのだった。

その時、私は若く、繊細で、誰にもNOと言えずにディジュリドゥを演奏していた。そういう現実を知るまでは、どうやってディジュリドゥを習ったのかという馬鹿げた質問だらけだった。「私にはアボリジナルの血が流れているのか?」、あるいは「イニシエーションを受けた事があるのか?」など.........こういった事が信じられず、その後しばらく演奏から離れていた。不幸な事に、一般的にオーストラリア人は、いまだディジュリドゥとアボリジナル文化について無知なのである。

さらにつっこんだ私の経歴については、アメリカのEd Druryが、彼の住むPortland地域のディジュリドゥ奏者のニュース・レターのために行ったインタビュー(英語/外部リンク)を読んでみて下さい。