Peter Lister|イダキ奏者/ヨォルング文化研究者
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6. マカッサン / インドネシア・スラウェシ島の漁民

【1】マカッサンとは....

Makassan(マカッサン)は、可能性としては3世紀から6世紀に渡って西はキンバリーから東はCarpentaria湾のはるかMornington島までアボリジナルの人々と交易をするために、インドネシアのSulawesi島の南西端の町Ujung Pandangから北部オーストラリアの沿岸を船である季節だけ訪れていた[Cawte, 1996(※1.)]。

かなり円満な交流だったように思えるこの長い期間に渡って、Top Endの人々は様々な物、そして言葉さえも彼等から取り入れてきた。タバコ、タバコを吸うパイプ、金属製のナイフ、丸木舟、帆船、旗、そしてアラック(アルコール)など、これら全ての物が伝統的生活の一部になったのである。マカッサンとの接触は、アーネム・ランドの伝統的生活の中に存在する豊かな音楽、言語、そして儀式的な側面の中にいまだに反映されている。

マカッサン・スタイルのパイプ

オーストラリアに家を持ったマカッサンもあり、Ujung Pandangに旅した中央、東アーネム・ランドのYolngu(ヨォルング:北東アーネム・ランドの人々の総称)もいた。このUjungpandangへの旅は1993年に再現(英語/外部リンク)された。

地図1. インドネシアと北部オーストラリア

地図1

※拡大するには地図をクリックして下さい

この地図上のスラウェシ島の南西端にUjung Pandang(Makassar)を見ることができます

 


【2】ナマコの交易

マカッサンは、「Prahus」(prows、praus、perahusともつづる)と呼ばれる帆船で、毎年夏に北西のモンスーンの風にのってアーネム・ランドの沿岸を訪れ、そして3ヶ月後の南東の風にのって帰る。彼等はオーストラリア北部にたくさんいるナマコを集めるためにやってきていた。中国人はナマコに医薬的、媚薬的な価値があると信じていた。毒性がある(サポニン [ナマコのグリコシド] を含んでいる)のでヨォルングはナマコを使わないが、一度正しく調理すれば毒性はなくなる。

Cawte博士によれば、「何世紀もの間、中国人達はナマコを大量に海岸から集めるために小型帆船を購入し、見知らぬ南の島に行き、Timor島へ持って帰る。そこから、自分達のジャンク(中国の平底帆船)にナマコをのせ、食べ物と薬品として売るために市場がある故郷へと帰る。」1901年以後、この交易はオーストラリア連邦によって禁止され、1906年には最終的に交易が停止した。

地図2. マカッサンの交易ルート

マカッサンの交易ルート

この地図は、Makassanがとった北オーストラリアと中国への交易ルートです[Cawte, 1996]

 


【3】ナマコの採集と加工

ナマコはモリでついたり、もぐったり、海底をさらって集められていた。潜水夫(その多くはアボリジナルの人々だった)は、水深14mまで潜り、一度に10匹のナマコを手編みのかばんに入れて上がってくる。海底をさらうときには、丸木帆船がペアーになって動き、ナマコを海底からすくい上げる。

trepang 'ビクトリア州 Essington湾のMacassan, 1845, HS Melville'
オーストラリア国立海洋博物館の展示会用のチラシから, 1977

捕まえたナマコは、裂き開き、海水でゆがき、砂や岩の下にしいて圧縮して旅に備えられる。その身は、竹の細長い切片で伸ばし開かれ、天日干しされ、ゆっくりと室内で薫製される。マカッサンは「キャンプ用の概成の屋根板、鉄製の鍋、米やその他の食料」(オーストラリア国立海洋博物館の展示から)を持ってきており、タバコ、酒、鉄製の道具、丸木船、帆船、様々な文化的習慣と言葉をヨォルングの人々に紹介した。

 


【4】探険家Mathew Flindersの航海日誌

Cawte博士は、1814年に発行されたMatthew Flinders(イギリスの探検家)による1801-3年の間の探検の航海日誌から広範囲に渡って引用している。

「.......Flinders中尉の帰還途中に、それらがMacassarからの船だとい事を知らされ、6人のマレー人の指揮官達がカヌーに乗船してきた。たまたま私のコックがマレー人だったので、そのコックを通じて彼等と会話をすることができた。6つの船の長は、背丈の低いPobassooという名前の年長の男だった。彼は、沿岸にはそれぞれの区域に分かれて6つの船があり、Sallooという人物が最高位の指揮官だと述べていた.......

Pobassooによれば、私についての主な情報は誰かから知られており、Boni王国の王様の60船が1,000人の船員をのせて、2ヶ月前に北西のモンスーンの風にのって、この沿岸部の調査に出発した。そしてその船団は、5-6隻ずつにわかれて西方のそれぞれの場所にいる。Pobassooの区域は、一番手前にある。彼等の船は、約25トンくらいで、20〜25人の船員がそれぞれの船に乗船しているようだった。Pobassooの二人の船員は、オランダ人から手に入れた小さな真鍮性の銃を持っていたが、それ以外の船員はマスケット銃(火縄銃の次に作られたタイプの旧式の銃)だけしか持っていなかった。そのそばでは全てのマレー人達が、秘密にあるいはおおっぴらに短剣を持っていた.......

1,000匹のナマコで1Picol(重量の単位)の重量になり、1Picolが約125オランダ・ポンドの重さになる。そして、100 Picol(約6,200kg)が一隻の船で運べる貨物量だった。それはTimor島へ運ばれ、そこで中国人に売られる。全ての船が集められ、その船団はMacassarへと戻るのである。」

これは60船それぞれが、10万匹近くのナマコ約6.2トンを運んでいたという事を意味する。つまり、少なくとも3世紀の間、夏毎に600万匹のナマコ(350トン以上)を持ち帰っていたことになる!!

乾燥ナマコは、現在でもシドニーのチャイナ・タウンで1kg約AU$20(約1,600円)で売られている。

 


ノーザン・テリトリー州にあるMakassanの
「Perahu」と呼ばれる帆船Hati Maregeを見ることができます。
→Hati Maregeのページへ


さらなる情報は、下記の書籍をお読み下さい。

●『The Voyage to Marege' : Macassan trepangers in northern Australia』

著者:CC Macknight著(1976)
出版:Melbourne University Press
品番:ISBN 0 522 84088 4.



【注釈】
※1. J. Cawte 1996
『Healers of Arnhem Land』
著者:J. Cawte 出版:University of New South Wales Press 品番:ISBN 0 86840 351 2  >>戻る