林 靖典 ポートレート 林 靖典 | ヨォルング語研究者・イダキ奏者
ゴーブ裁判 -アボリジナル土地所有権問題-

地下/鉱山資源の宝庫であるオーストラリア大陸は19世紀の中頃、ゴールドラッシュ・インパクトを受けることになり、数多くのオーストラリア海外からの移住者や地下資源を求めてくる輩が一攫千金の思いでこの大陸に押し寄せてきました。金の発見に触発されるように、ボーキサイト、石炭、ウラニウム、ダイヤモンド、鉛、鉄鉱石、石油、天然ガスなどの資源が続々と掘り起こされ、当時の人々の目にはオーストラリア大陸は輝く大地と映っていたのかもしれません。しかしながら、当時から半世紀前、18世紀後半に始まった白人入植者による大陸侵略以前のはるか昔、現オーストラリア大陸に住み続けているアボリジナルは大地と非常に強く、神聖な関係を持っている為、地下/鉱山資源を掘り起こす発掘作業は彼らの一般的に「ドリーミング」として知られている伝統ビジネスを冒涜することを意味していました。その結果として、当時から約1世紀経った1960・70年代を通して、北東アーネムランドにおいてアボリジナルとバランダ(ノン・アボリジナル)の間でLand Rights(土地所有権)問題を軸に対立することになります。第一部として、ゴーブ判決における北東アーネムランドに住むアボリジナルの土地所有権問題、第二部として地下資源発掘作業に起因する北東Arnhem Land アボリジナルの伝統文化崩壊の状況を嘆くアボリジナルの言葉をとりあげたいと思います。

樹皮画嘆願書

1952年にGove Peninsulaにて膨大な量のボーキサイトが発見され、北東アーネムランドのアボリジナルの土地に巨大な採掘社の設立と、そこで労働することになるバランダの居住区としての街づくりをするという話が浮上しました。当時、大半のGove Peninsulaにおける土地所有権は女性のみで構成されていたLamami言語グループ(※1.)のものであり、彼女らは過去に何度も起こったアボリジナルの歴史、つまりバランダに自分たちのものが奪われるということが再び起こると分かっていました(Trudgen. R, 2000, pg-41)。予期していたように1963年3月13日、オーストラリア政府はボーキサイト採掘目的の為にその土地Arnhem Land 特定保護地区300キロメートル四方をアボリジナル土地所有権システムを無視した上で取り上げました(Commonwealth online)。この政府の行動により、採掘社であるNabalco Alan Pty Limitedはその土地を採掘するバランダ法的権利を得たことになったのです。

その政府の行動を機に、Port BradshawからCape Shieldの更に南の地域の言語グループがLamami言語グループとミッショナリーの仲介役としてYirrkalaミッションに集結し、彼らアボリジナルはLamamiに代わってバランダを敵にとり、戦うことになりました(Trudgen. R, 2000, pg-41)。採掘社に対する初戦として、その年1963年8月Yirrkala アボリジナルはキャンベラにある下院に対して二枚の樹皮画嘆願書(※2.)を提出しました。第一の嘆願書はノーザンテリトリー準州議院のJock Nelsonにより8月14日、第二嘆願書は同じくその月の28日に採掘反対派指導者Arthur Calwellにより提出されたものです(Commonwealth online)。それら二つの嘆願書はバーク・ペティションと呼ばれ、二書ともGumatj言語と英語で書かれおり、当時Gumatjのリーダーであり、またこの件に関する先導者であったMungarrawuy Yunupinguによって彼の息子Galarrwuy Yunupingu(※3.)がその書記、通訳係りとして駆り出されたのです(Galarrwuy Yunupingu, 2002)。次項はGalarrwuyが書いた英文版嘆願書を日本語訳したものです。

樹皮画嘆願書 Dhuwa半族 樹皮画嘆願書 Yirritja半族
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ここで使われている画像はBuku Larrngay Mulkaが出版している北東アーネム・ランドの樹皮画集『Saltwater』から使われています。また使用に際してはその許可をいただいてここに掲載されています。無断転載はできません。


ここにYirrkala アボリジナルの人々、Balamumu, Narrkala, Gapiny, Miliwurrwurr, Djapu, Mangalili, Madarrpa, Magarrwanaimirri, Djambarrapuyngu, Gumatji, Marrakulu, Galpu, Dhaluangu, Wangurri, Warramirri, Naymil、そしてRiritjingu言語グループのメンバーによってサインされた嘆願書は謹んで以下の事を申し上げたい。

今回、Arnhem Landのアボリジナル特定保護地区から地下資源採掘の為に私たちから取り除いた土地には上記の言語グループの人々、約500人が住居者として住んでいます。

この土地(アボリジナル 特定保護地区)の搾取に関しての手順、そしてそこに住む人々のこれからの事柄はまったく事前に私たちに対して説明されておらず、その事はむしろ私たちに対して隠されていました。

私たちの出席していない場所で、私たちの反対を無視して福祉関係役員や政府公務員が決定した事柄を伝えに来た後、彼らはキャンベラ政府にその決定事項に対するYirrkala アボリジナルの見解や感情を伝えなかった。

遠い昔から、問題の土地は我々Yirrkalaに住むアボリジナルにとってハンティングやブッシュタッカー採集の場所である。私たちは皆、ここで生まれました。

Yirrkala アボリジナルにとって神聖な場所、又彼らの暮らしの活力源になる場所が今回、搾取する土地に含まれています。その中でも特にMelville Bayにおいて。

過去に起こった様に我々の要求と関心がまったく無視されるのではないかと感じます。そしてLarrkeahの人達が経験したような運命が自分たちにも襲い掛かるのではないかと非常に危惧しています。

慎ましやかに懇願します、この土地の搾取許可を出す前に、Yirrkala アボリジナルの見解に耳を傾けてもらえる適格な通訳者を伴った委員会を設ける事を。

Yirrkala アボリジナルの暮らしと独立を壊しかねない企業に手合わせを一切しないことを懇願します。

本文の命じるとおりに、請願者達は神の御加護があなた達と私たちにあるように願います。

(Galarrwuy Yunupingu/Commonwealth online)


これらの嘆願書に対する政府のアボリジナルへの最終的対応として1963年10月29日、委員会は上院にYirrkala アボリジナルへの金銭による償いとアボリジナルの神聖な場所の保護、そして現在進んでいる採掘事業の監視を命じました(Commonwealth online)。しかし、言うまでもなく彼らは政府に対して賠償金の請求や、自分たちに代わって神聖な場所の管理を懇願したのではなく、自分たちの傷つき痛んだ心を理解し、今回搾取した土地はアボリジナルの所有であるということを承諾してもらうことを望んでいたのです。

二枚の樹皮画嘆願書提出の結果として、全国のアボリジナルの本意は実りませんでしたが、以下の事を言うことができるかもしれません。1963年にもなって、アボリジナルが未だ政府に人権や道徳の観点から無視されているという事実が全国に明らかになったことによって、ノン・アボリジナル大衆のアボリジナルに対する共感と共に、ノン・アボリジナル大衆の政府に対する反感を集めることができたと。途中の出来事は省略させていただきますが、結果として1967年の国民投票結果により、Australian アボリジナルの人々は初めてオーストラリア市民としてカウントされる権利を得、人口調査の対象になったのです。と同時にアボリジナルの人々はこの時点において、一国民と認められながらも、土地所有者としては無視されていたのです。

それから4年後の1971年、Yirrkala アボリジナルの人々は自分たちに土地所有権を認めさせることを目的にその問題をノーザンテリトリー最高裁判所へ起訴しました。この一件はMilirrpum(※4.)とその他のYirrkala アボリジナル対Nabalco Alan Pty Limitedとオーストラリア政府の法廷においての戦いであり、Gove Land Caseとして知られています。しかし、結果としてアボリジナルの要求はまたしても却下されました。政府側の見解を簡潔に表すと、Yolngu(Northeast Arnhemland アボリジナル)に対して下った判決は「Terra Nullius」オーストラリア大陸は白人入植者がやってくる以前には誰の土地でもなかった、という考えに基づいています(Galarrwuy Yunupingu, 1997,pg-4)。当時の政府側弁護士であったJustice Blackburnの強引でありながら法廷の中では理にかなっているとも思える弁護は以下の数パラグラフに示します。

Justice Blackburnは当時の法廷記録の「The permissive use of land」土地の許可制利用(reported by A. J. Leslie, LL.B, 1971, pg-181~183) セクションの中でYolnguの土地所有権の定義を取り上げ、独自の見解を弁護します。

「Yolnguの土地所有権の定義とはそれぞれの言語グループは特定の土地に特定の関係をもっている、それはしばしば神聖なビジネスであることが多い。よって、ある言語グループや、ある人間が他のグループの土地を使用したり、またいだりする際、対象のグループからの許可を必要とする。」

Justice Blackburnは以上のYolngu的定義を確かめるため、また同時に、その定義の正確さを否定するために、Riritjingu言語グループのリーダーであるRoy Dadaynga Marikaの話を引用します。以下は「The permissive use of land」の中でのJustice Blackburnの言葉です。

「RiritjinguであるRoy Dadaynga Marikaは証言した。去年、彼は彼の叔父であるGumatjのMungarrawuy Yunupinguにカーヴィングウッドを取りに行く為、Cape Arnhemに行けるかどうかということを尋ねた。しかし、Royの要求はGumatj自身がその木材を必要とするため、却下された(当時、Cape ArnhemはLamami言語グループの土地であったが、男性がいないためGumatjが‘世話’していた)。以上の話は全くYolngu的土地所有定義に適うものである。しかしながら、この証言は個の例示であり、この例示から私はYolngu的土地所有権というものを普遍化することに抵抗を感じる。というのもYirrkala アボリジナルの生活はYirrkalaにやってきた白人生活様式との接触によって、少なくとも影響を受けていると思えるからである。さらに、Roy Dadaynga Marikaの証言として、彼が飛行機に乗るために飛行場に行ったとき、その場所がGumatjiのものであったにもかかわらず彼は誰にも許可を尋ねることはなかった。」

証言が示す事実、Roy Dadaynga Marikaが許可なしにGumatjiの土地に入ったということが被告弁護側のJustice BlackburnがYolngu的土地所有権の信用性を否定できうるチャンスを与えたことになってしまったのです。Roy Dadaynga Marikaの行動は単なるひとつの事例ではあるが、最高裁判所において、この事実は結果として原告側を不利な状況に追い詰めたのかもしれません。

さらに、「Conclusion(reported by A. J. Leslie, LL.B, 1971, pg-293)」 においてJustice Blackburn は法廷における根源的事実を指摘します。

「私は原告側の言い分が個人の感情を含んでいるように思えて仕方ありません。私が意味したいのは、法廷の中でのどんな要求、主張であっても、感情に基づくものであってはならない、法的事実に基づくものでなければ。」

異論の余地も無く、法廷においての順序やシステムは白人世界の方法論によって進められたもので、このGove Caseでは最初から原告側は言葉の壁や白人世界の法廷システムでの経験量の差において不利な状況に立たされていたのではないのでしょうか。しかし、この裁判の真の要素としては法廷での勝ち負けが焦点にあるのではなく、Milirrpum対NabalcoにおいてYirrkala アボリジナルの採掘によって搾取されたスピリチュアル的、精神的に傷ついた彼らの心に焦点が当てられるべきであったのではないでしょうか。判決が原告側に告げられた後、Roy Dadaynga Marika は以下のことを強く言い切ります。

We are all different clan, all different ownership on the land. Why we lost the case? Land is still belonging to us. Land is culture, sing and dance are our culture. We still recognise the land is still belonging to us.

(Yirrkala Film Project ,1996)

ゴーブ判決以降、最終的にアボリジナルがバランダ法律的に土地所有権を獲得するまでの経緯は現在、文字に起こしていないので、興味のある方は是非Mabo Case(マボ判決)をキーワードにインターネットや書籍で情報を収集して下さい。


【注釈】
※1. Lamami言語グループ
Lamami言語グループの最後の男性は第二次世界大戦直前に亡くなった。>>戻る

※2. 二枚の樹皮画嘆願書
一枚がDhuwaからの請願、もう一枚がYirritjaからの請願とされており、二枚の内容は同じである。>>戻る

※3. Galarrwuy Yunupingu
現在Gumatjのエルダー、そして2004年10月までNorthern Land Council(NLC)のチェアーマンを勤めていた。>>戻る

※4. Milirrpum
MilirrpumはRiritjingu言語グループの一員である。>>戻る