私がDjalu' Gurruwiwiと知り合って数年が立つ。私は彼の生き方と考え方の中に彼の(人間的)深みを見い出し続けるのである。 騒乱の時代、特にキリスト教の宣教活動の影響、そしてオーストラリア政府の干渉によって、ヨォルング(※1.)の文化的風習、社会構造と哲学的思考の再編成がおこった1950年代を生き抜いた他のヨォルングの人々の生き方の中にも、Djalu'と同じような傾向を見い出すことができる。 西洋的社会がヨォルング従来の生き方に与えた衝撃は、一部のヨォルングにとっては喜ばしくない記憶として残っている。しかし、Djalu'は伝統文化と西洋文化の賜物を一つにする新しい生活様式と向かい合う中で、ある種の成功を得てきたようである。 これはDjalu'の生き方に焦点をあわせたDjaluの伝記です。ヨォルングの人々の格闘と苦難、そして新しい生活様式を作り上げるための戦略について世界中の人々の認識が得られ、世界中の人々とこの事実を共有しあう事をDjalu'自身が熱望しています。 Djalu'の生き様を形成するのに影響を与えたのは、Djalu'の父親の一人であるMonyuである事は間違いない。指導者としてのMonyuの資質や、新しい生活様式へ適応するためのMonyuの模索、それらが、現在Djalu'が新しい道を見い出す努力の源になっている。 Galpuクラン(言語グループ)のリーダーであるMonyuは、1950年代後半に他のクランの長老達と共に、秘儀的かつ神聖な儀式的オブジェを Elcho島に建て、公開した。それは過去には女性やイニシエーション(通過儀礼)を受けていない男性が決して見ることができなかった物である。このオブジェはたくさんの要素が組み合わさった物体であり、アーネム・ランドのこの地域における政府との調停運動の一部としてその建設が執り行われた。 Djalu' Gurruwiwiは色んな意味でメシア的人物として、みなさん御存じの事だろう。西洋人にとってDjalu'の名はすばらしいイダキ職人として知られているが、彼には非日常的な面で重要な役割があり、そのことはアーネム・ランドではより広く知られている。 Djalu'は儀式のエキスパートであり、キリスト教の指導者であり、彼のクランの人々にとって精神的指導者である。ある意味、このようなDjalu' の役割と特質は、彼のイダキのスター性に影をなげかけるが、それもまた彼のスター性を形成する一つの要因になっている。 このGalpuクランの老人はおそらく史上最もすぐれたイダキ職人だろう。その証拠は随所にみられる。世界中のイダキ愛好家達がDjalu'の作った楽器についてインターネットで議論しあったり、北東アーネム・ランドのYirrkalaが輩出したロック・バンド「Yothu Yindi」がDjalu'製作のイダキを好んで使っているという事実が、Djalu'のイダキ職人としての才能の輝きを物語っている。 もしこれが不十分な証拠なら、彼のイダキが熱心なコレクターに大量に売られているということがそれを証明しているし、特に未熟なイダキ職人達によってイダキに適した木々が枯渇していくにつれて、彼の「良質の樹」が信じられない値段で売られるようになるというのも時間の問題だろう。 Djalu'と同じくらい著明なディジュリドゥ職人というのは、ほんの一握りです。Yothu Yindiで有名なMilkayngu Mununggurr(※2.)、David Blanasi(※3.)、Alan DarginそしてDavid Hudsonはみなディジュリドゥの名手であり、David Blanasiだけがすばらしいディジュリドゥ職人として知られている。 一人の人間、父親、クランの指導者、長老としてのDjalu'をより深く知り、そしてDjalu'を国際的に有名にした流れを洞察するには、北東アーネム・ランドのヨォルングの人々の歴史と人生を探究しなければいけない...... Djalu'は第二次世界大戦前にMilingimbiにて生まれる。彼のスピリットの起原はWessel諸島の小さな島Wirriku島にさかのぼる。Djalu'はペインティングの際には、サンダーマンBol'nguが創った聖なる岩「Dhanggul」(ちなみにこれはDjaluの妹の名前でもある)、そしてこの場所の聖なる亀「Marrparn」などWirriku島に関する祖先のストーリーをよく描く。 登録されているDjalu'の生まれ年は1931年だが、現在の彼の精神的活力と肉体的活気、そして静かにたたずんだ厳粛さを目の当たりにすれば、10〜15才は若く見える。 中央アーネム・ランド北岸のMilingimbiとWessel諸島の日本軍の爆撃は、今だはっきりとDjalu'の心に残っている。それは古代から続いた祖先の生き方が、現代のミッション(キリスト教の宣教目的とした建てられた居住地)中心の居住地での生活に変わるという変化の始まりだった。これはアボリジナルの人々を国家の一部にするために行われたのだった。 こういった新しい物事が伝統的生活に侵入してきたにもかかわらず、ヨォルングの人々は自分達の生き方を現在まで維持してきた。それはミッションから自分達の自主性をひきだし、ブッシュから生活の糧を得続けるために、多くのヨォルングが先祖代々のホームランド(故地)を守り続ける事を決めたからだった。当時Djalu'は両親と家族に連れられて、狩りの旅について行き、その時に著明なイダキ奏者であるDjalu'の父親が一本のイダキを持って旅していたという事をしっかりと記憶している。 その後、Djalu'はGaliwin'ku(Elcho島)にミッション管理のアボリジナル居住地を建設するヨォルングのチームに参加する。現地の製材工場が建設資材を提供し、建設に必要な木材は現地のブッシュ付近で育てられた。外国の産地から平底船で資材を運ぶ現在とくらべて、当時は若者達が切り落された木々を肩にかついで運んでいた。機械の導入で労働作業が楽になる前の、当時の手作業の仕事を、現在もDjalu'は誇りに思っている。 大工職人としての腕も上がり、Djalu'はダーウィンでの住宅建設にたずさわるようになる。「Gordon Symon」はDjalu'が手掛けた仕事の一つで、現在もダーウィンにある。またGaliwin'kuにも彼が手掛けた家が残っている。彼がたずさわった仕事に見られる風合からは、木工とイダキに関してDjalu'が持つナチュラルな趣向性がはっきりと見受けられる。 「わしはいっぱい家を建てたよ。いい家をね。Manymak(Goodを意味するヨォルング語)。腕のいい大工みたいにね.......若者が木を切ってな。いい木、森の木をね。6 x 6インチ、8 x 8インチ、2 x 2インチ、2 x 3インチ角の木材とか、180cmとか270cmの長さの木材とかね。」 Djalu'はミッション職員の厳しい教義、伝統的儀式の禁止、無法者のブッシュへの追放など、ミッション居住地での初期の頃の事を複雑な思いとともに記憶している。また現代のコミュニティの教育施設とその効果に比べれば、無価値に思える教育の事をDjaluは覚えている。 ミッション居住地での食料もまた一つの問題だった。毎日の食事はコップ一杯の小麦粉、少量の砂糖と紅茶の葉といったものであった。当時、Djalu'の家族は平日の間ずっと小麦粉を蓄えて、土曜日に大きなダンパー(※4.)を作り、他の家族や訪問者とわけあって食べていた。支給される食料の不足とミッション居住地に集まるヨォルングの増加により、新たなアプローチが必要になってきた。そしてその解答はDjalu'がミッションを離れたように、狩猟の冒険の中に見い出されたのだった。Djalu'は当時の様子を振り返って、ヨォルングの男達がどうやって投網を持って丸木舟にのり、小川の適所に投網をかけ、夜明けまで一晩中その網を見つめ続け、獲物をもって帰るのかを語る。つまるところ旅の最中で眠ることができるのは、その日だけである。 現代の豊かさと機会とは対照的に、ミッションで働くヨォルングはほんの少ししかミッションから支払らわれていなかった。当時、ヨォルングは週給1〜3セントという給料で働かされていたと語気を強めてDjalu'は語っていた。それでも時間と熟練とともに、Djalu'は1〜2週間働いて$10くらいはかせげるようになった。 のちにDjalu'の専門分野であるイダキにまつわる仕事に先立って、まず最初に庭師の仕事とクロコダイル狩りの仕事をし、ミッション・スクールでは、伝統的な踊りと歌とイダキの演奏「Bunggul」を子供達に教えていた。のちに、より多くの収入を生み出すためにミッション主導によるアート&クラフト産業がおこる。他のミッション居住地のアボリジナルの人々同様、Djalu'は樹皮画、イダキ、彫刻などを作るようにミッションから支援される。それらの作品は、教会の手によってオーストラリア南部の街々で売られるのである。この時すでにDjalu'は結婚しており、彼の子供は幼少期を過ぎ大きくなっていた。 Djalu'がイダキ・マスターである自分の父親を言い表わす時はもっとも熱烈になる。 "Yothu gan ngarrany marnggikungal? Marlu, marnrda rraku, nhaangal diltjingur gulkthurr way, yirdaki balanya yirdaki, gulk... Marlu'mirringu marnggi. Yirdaki huntinglil ngayi dhu gaama; ngayi dhu miyapunu djardal'yun ngayi dhu yirdaki-wanga... Ngunha yirdakiny djaama because ngarraku baapa'mirringu nhaawi yirdakiw ngayi marnggi, Monyu... balanya rrakun baapa rraku marnggikungal dhangu dhangu yirdaki dhuwal nhe dhu gulkthun..." 「誰がわしにイダキを教えたかって?わしの二人の父親だよ。ブッシュの中でこんな風に父親達が木を切ってイダキを作るのをじっと見ていたんだよ。親父は(イダキの事を)よく知っている。親父が狩りに出る時には、イダキを持っていき、亀を捕まえる時にはイダキを演奏するんだよ...。わしがイダキを作るのは、親父のMonyuがイダキに精通していたからなんだ。ほらここにイダキがある、あそことここだ。じゃぁ、おまえはこの木を切れ。こんな風にしてイダキを作り方を教わったんだ。」 Djalu'の父親であるMonyuは長い間一本のイダキを持っていた。それはおそらく10〜20年くらいの間だろう。Bardawili'(※5.)で作られたそのイダキは演奏されない時はクラックをさけるために水の中にしずめられていた。最近は、昔のように荒い方法でうまくイダキが作られることはあまりないが、時にそのサウンドは良いことがある。イダキを作るのにはナイフが使われていたが、現在はでサンダーのような道具が使われることがある。 Djalu'の二人の父親達は亡くなる前に、責任、文化、法について自分に伝えたのだとDjalu'は語る。またDjalu'が教えられたのと同じように、自分の息子達もヨォルングの文化的遺産を守っていく役割を担ってくれることをDjalu'は望んでいるのである。若者の多くは文化がまるでゲームや娯楽であるかのようにとらえ、Djalu'のこのような考えを軽く考えているようだ。しかしそこでDjalu'は、Birlma(クラップスティック)とYirdakiも重要で、法に根ざしており、非常にパワフルなものであるということを強調している。 "Romngur ngayi yindi yaaku, baaydhi ngayi nyumukurniny..." 「イダキは形状的には小さな物体であるというだけでかまわないが、文化と伝統においてはイダキは非常に重要な存在なんだ。」 Djalu'が言うには、イダキはトランペットみたいなものではない。 現在Djalu'が抱いているイダキに対する熱意は、単に自分達の文化に命を吹き込み続ける努力から生じているのではなく、キリスト教宣教師達が「不信心者達の宗教」だと言ってまゆをひそめたミッション初期の時代にうけた感応でもある。Djalu'がこのように卓越した人物になるには、その他たくさんの要素が重なりあっている。それには聖書による干渉が重要な役割を果たしている。 "Baapay Godthu rraku gurrupar djaama yirdaki. Djaama rrakun, yaka wiripuny djaama...yaka djaama wiripunha..." 「神様がわしにイダキを作るという仕事を与えてくださった。他の違うどんな仕事でもなく、イダキを作るということが今のわしの仕事だよ。」 これは生計をたてるための手段でもあり、救済のような仕事でもあるとDjalu'は言い表わしている。イダキがソウルに触れ、それによって人々が変わっていく。しかし、ミッション居住地で彼が受取るほんの少しの給料とは対照的に、イダキを作ることで家族を養ってもいる。そして扶養家族がDjalu'の翼の元にますます増えるにしたがって、Djalu'は自分のイダキの事業を続け、事業を発展させるという事を希望している。イダキがより多くの人のソウルに触れれば、Djalu'はより強く神に対する達成感を感じるのである。 そういった彼の充足感はアボリジナル・コミュニティ内の問題の仲介役や、キリスト教の集会での説教、現代のキリスト教の観念とヨォルングの伝統的かつ文化的信仰の調停などからも得られている。Djalu'が人々の敬意を集める長老であり、儀式のスペシャリストであるということ。それはこのようなDjalu'の様々な2面性が継ぎ目なく統合されているとことを表しているのである。 Djalu'の以前のイダキ演奏におけるすばらしい腕前もまた注目に値する点だろう。 「わしはすごく年をとっているけれど、ディジュリドゥを演奏する時にはわしの命と肺のパワーは、若いやつらにまけることはない。ほら、わしには力強いパワーがある。すごく力強い舌、イダキのためのより力強いパワー.......誰しもが持ち得ない、より力強いパワーがあるんだ。そうだろ?」 Djalu'は、北東アーネム・ランドのスター的イダキ奏者Milkayngu Mununggurrや他の誰よりも優れたイダキ奏者だったのだとほのめかす。Djalu'のパワーは、酒やタバコをやらないからだという。 "Nhaa ngatha ngarali'wu nhaa; ngarrany dhu buny'tjun ngarrany dhu dhinggaman" 「このタバコってやつは食べ物かい、それとも何だい?もしわしがタバコを吸えば、わしは死んでしまうだろう。」 しかしながら、Djalu'は神秘的で悲劇的な苦難のため、自分の声帯のどれか一つが不能になっているか、喉頭の一部に損傷があるという状態にみまわれ、それによりイダキをフルパワーで演奏することはできなくなっている。Djalu'が受けたこの災難は、彼に儀式的呪いをかけた一族の男に呪いを解くために支払った代償の結果なのだという。不運が続き、現在では人が聞き違えるようなか弱い、かすれた声になってしまった。Djalu'は喉の障害のため自分がもうある特定の曲が演奏できないということを表すために、「Gurdurrku'(※6.)」の曲を私に聞かせてくれた。 「この曲に必要なサウンド、パワーはここから来るんだよ、この内部から......わかるかい。こいつがいかれちまってるんだ。」 ヨォルングの政治的な争いの場というのは非常に複雑である。Djalu'は自分が他のコミュニティの人達に利用されてきたという事をざっと私に打ち明けた。Djalu'が他のコミュニティの人達のためにイダキを作る時には十分に支払われない事がよくある。"Yaka manymak, yaatjkurru Yolngu"と彼は言う。彼が住むGunyangaraから数百kmも離れたMilingimbiなどアーネム・ランドの遠くはなれた所からいまだ楽器製作の依頼がくるのである。 未来はDjalu自身の言葉でもっとも明白に表現されている。 "Ngara dhu yakan stop. Manymak eh?" 「わしは(イダキにかかわりながら)立ち止まらない。それがいいんだよ、そう思わないかい?」 現在、Djalu'は自分の名前、名声、そしてディジュリドゥのルーツからますます離れていくディジュリドゥ産業における自分の販路の可能性などの管理を開拓しようと試みている。Djalu'は自分のウェブサイトを通じて、今まで彼がやってきたように「二つの異なる世界」を結び付ける事ができればと考えている。一つは西洋社会であり、もう一つはヨォルングが決して失ってはいけないDjalu'の知る世界である。そう考えると、インターネットは収入を生む一つの手段として、古来から伝わる先祖伝来の生活様式と現代的生活を調和するための象徴となる選択肢である。 Djalu'は、この彼のインターネット事業「djalu.com(英語/外部リンク)」が単なる彼のイダキの直営店として見られるのではなく、最も著明なイダキの継承者である彼のアートのプライドと前述の彼が意識する物事のより良い管理をもたらすものになればと考えている。Djalu'は、Wititj(オリーブ・パイソンという種類のヘビ)に関する知識の守護者であり、その秘密の管理人として、ヨォルングの世界の外部の人達から単に無視されること、あるいは利用されることで自分のパワーがむしばまれるのではないかと心配している。 Guan Lim著 Copyright 2001, Djalu' Gurruwiwi and Guan Lim. このDjalu Gurruwiwiの伝記の中の文章は、その一部であっても権利者の許可なく使用することはできません。またこの日本語版はGuan Lim氏の許可をいただいてEarth
Tubeで作製されたものです。注釈は日本人がこの小論を読む際の手助けとしてEarth Tubeがつけたものです。
世界一のイダキ奏者Djalu Gurruwiwi ついに来日決定!!!
【注釈】
※1. ヨォルング |トップへ|
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