ヤス(カラキ ヤスオ)|在豪イダキ奏者
Nicky Jorrokへ、哀悼の気持ちをこめて-

今朝、メールのチェックをしていてあまりにも突然の訃報に愕然とした。

「Nicky Jorrok passed away.(Nicky Jorrokが亡くなった)」

それはDarwinの知人Mitchinからのメールだった。あまりの内容に簡単には信じられず、何度も何度もそのメールを読み返してみる。しかし何度読み返しても変わることのない「Passed away」の文字。 Nicky Jorrokはまだ49歳。まだまだこれからという時に心臓病を患い6月12日に亡くなったという連絡だった・・。

Darwin 周辺のWanggaスタイルを受け継ぐKenbi(ディジュリドゥ)奏者として稀有な才能に溢れ、彼の住むBelyuenコミュニティの未来を担っていくであろう人物の、あまりにも突然な死の知らせ。僕の心のなかに彼の笑い声が浮かんで消えた・・。

僕にとってNicky Jorrokは特別な人だった。

僕の生き方は彼に出会ったことによって大きく変わったといっても過言ではない。Loop Rootsのメンバーの中でも「いつかNicky Jorrokを、Belyuen Dancersを日本に呼ぼうや!」というのが合言葉のようになっていた。北東アーネム・ランドのBunggulや西部アーネム・ランドのGunborrkとはまた違った彼らのスタイルであるWanggaを、彼らの温かみのある唄を、NickyのKenbiの音を、日本のみんなに聞いて欲しかった・・。そして彼らが日本を訪れることで自信を得て、もう一度彼らの音楽の素晴らしさを後の世代に伝えていってほしかった。Nickyならそれができると僕は信じていたから。もうそれが叶わないのだと思うと、心にポカンと大きな穴が開いたような、寂しいような切ない気持ちでいっぱいになる・・。

日本でCD「Rak Badjalarr」の音と衝撃的な出会いをしてから数年後、僕はCDの解説の中にも登場するBelyuen周辺の人たちにとって大切な「Mandorah」という海岸でNickyに出会うチャンスが巡ってきた。どんなヒゲ面の長老がでてくるのかと思っていたのに、実際の彼はとても若く、ちょっとはずかしがりなおじちゃんだった。僕が「あなたに会いたくて日本からここまできたんです!」と興奮しながら伝えると、彼はちょっとはにかみながら、でもとても嬉しそうに笑ったのを覚えている。

そのあとDarwinの街が遠くに見える美しいMandorahの海岸で、兄弟であるHenry Jorrokとともに演奏してくれた曲の数々はそれはそれは素晴らしいものだった。 Rak Badjalarrの世界は過去のものではなく、いま、この場所で生き続けているのだということを実感した。そしてそれはまるで夢の中にいるような不思議な時間でもあった。 そして2人が披露してくれた名曲「Buffalo Song(水牛の唄)」は、いまでも僕の心の中に響き続けている・・。そしてその出会い以降、僕は何度も彼のもとを尋ねた。

Loop RootsのメンバーであるGORIくん、長谷くん、のりくんとともにBelyuenの彼の家を訪ねたときは、突然現れたにも関わらず僕達を大歓迎してくれ、近所の人たちもみんな集めてちょっとしたカラバリーを開いてくれた。Nickyがディジュリドゥを吹き「お前らも吹け!」とディジュリドゥを差し出す。僕達が吹き始めるとそれにあわせてソングマンが唄ってくれる。 Nickyは嬉しそうに笑いながら「そうだ、そうだっ!もっとトリッキーに!」と指示を送る。盛り上がってくると踊りだす人が現れ、僕らのDance Leaderのりくんが負けじと踊りの輪に飛び込む!彼の本格的だがなぜかコミカルな踊りに、その場にいる全員が笑い転げた。彼らと過ごした時間は、文句なしに楽しいと感じられる貴重な時間だった。

そんななか、とても感激したのはNickyとNickyの息子のやりとりだった。彼の息子はディジュリドゥをあまり吹かない。だけど彼は「見てみろ、日本から来た彼らがこんなに吹いているじゃないか!お前も吹いたらどうなんだ?」といって息子にディジュリドゥを手渡した。そして彼が吹くのを優しい目で見守っていたのが印象的だった。そして吹き終わると「お前もやれるじゃないか!」と満面の笑みで盛り上げていた。彼は真剣にコミュニティの未来や、文化の継承を考えていたのだ。

Nickyはあまり酒を飲まず、タバコも吸わなかった。それは酒やタバコが彼らの文化を、そしてコミュニティをいい方向に導かないということを感じているからだ。ある日、彼は僕にこう打ち明けた「若い連中は違う音楽に夢中で誰もバンブー(ディジュリドゥの総称の1つ)を吹こうとしない。だけど俺達はそれを伝えていかなきゃならないんだ」。そういった彼の声に力強さを感じた。

Belyuenにはソングマンは多くいるが、すでにディジュリドゥ職人はいない。事実、白人であるMitchinがNickyのディジュリドゥを製作していた。それだけではなくディジュリドゥを吹ける人も数少ないという状況だった。彼の住むコミュニティではディジュリドゥは失われはじめている文化なのだ。そんな状況のなか、稀有な才能を発揮し、CD「Rak Badjalarr」を通して世界中にWanggaスタイルを紹介した彼の功績は計り知れない。それだけではなく、彼はKenbiを抱えて世界を回り、そのスピリットをより多くの人に実際に伝えていくと思っていた。そして僕はこの人こそがBelyuenコミュニティの未来を、そしてWanggaスタイルの未来を担っていくべき人なんだなあと感じていた。

それなのに・・彼はもういない・・。

もう彼のあの深くうねるような音を生で聞くことはできない・・。

だけど・・と僕は思う。

彼のスピリットは僕たちのなかに響き、うねり続けている。

だからもう悲しむのはやめよう。

そしてその響きが途切れてしまわないように、自分の体を、心をつかって伝えていこう。

遠い日本にいてこの訃報を受け取り、僕になにができるか考えたときに、彼との出会いを振り返り、その意思をより多くの人に伝えることが彼の死を追悼することではないかと思った。

世界中の多くの人の心にNickyの音が響くこと、そして彼の冥福を心から祈って・・
出口晴久 2006.6.20